私はなぜ死んでいないのか

最初にこの問いを立てた時には、「死に価値を与えたくないから」「積極的に生きてはおらず、消極的に、惰性的に、単に死を積極的に選んでいない結果として」生きていると結論づけた。
しかし、これは自己欺瞞そのものだった。
滅し切れていない生存本能が偽造した偽りの理由、抑圧された欲望の自己欺瞞


その欺瞞に気づいた時、この問いはまた俎の上に戻ってきた。
次に出した結論は、以下のようなものだった。
「私が『生きたい』と思っているから」
自らの自己欺瞞に気づき、それを看破したという点では、ひとつ真実に近づけたと言えるが、「生きたいと思う」理由について掘り下げることが出来ていないという点で、まだ自己防衛規制の壁を突破できていない状態だった。


気がついたら、「私」は「生きていたい」とすら思っていなかった。
停止させていた思考がまた流れ出す。
確かに、「私自身」は「生きていたい」とは思っていない。
だがそれと同時に今「私」とつながっている人たちとの絆を断ち切りたいとも思っていない。
つながったままの神経が痛みを伝達してしまうように、つながれた絆は苦しみや哀しみを私に感じさせる。
その苦しみや哀しみを想像するだけで、私の足は立ちすくんでしまう。
だから、私が「死んでしまう」ためには、その絆を一つ一つ解きほどいていかなければならない。
全ての絆が失われれば、私はもう何も感じることはない。
その時私には何も残されていないから、「生きていたい」と思わないことは「死んでも良い」と同意義になり、私は心安らかに全てを終わりにしてしまうことが出来るだろう。
結局のところ、私が「死んでいない」のは、まだ私が解きほどいていない絆が残っているからであり、そしてそれを解きほどきたいとは思っていないからだろう。