遺書には正式な手続きがいるらしい。
が、そんなことはどうでもいい。
死後のことを考えることほど無意味なことはない。


私は、自分の葬式をしてもらいたくない。
葬式。
死者を完全にこの世界から葬り去るための儀式。


何故皆が同じ形式で死者と決別することができるのだろう。
人によって、その人との関わり方、その人に対する思いは異なるはずなのに。
それで納得できるのか?
皆の前で、皆と同じ形で、定められた手順に則って。


私はそんな形で消されたくはない。
各々が、それぞれのやり方で私を処分して欲しい。
私は1人ではない。
私と関わった人の分だけ私がいるのだ。
私の死は、その人自身が、けりを付けるべきことがらなのであって、共通の処理で処分できる類のものではないはずである。
それが、「ああ、死んだのね。抹消。」であったとしても、それでよい。


ある人にとって「葬式」は大袈裟すぎるし、別の人にとっては「葬式」はあまりにも簡略すぎるのである。
何故、同じでなければならないのか。
私は、自らの葬式を、断固、拒否する。
もっとも、「死人に口なし」なのだろうが。


遺体?遺骨?
死者がそんなものに興味を持つわけがないだろう。
気が済むようにすればいいさ。
ただ、私の意志を尊重するのなら(そんなことはまずないのだろうけど)。
私が「完全なる消滅」を望んでいたことだけを覚えていて貰えれば自ずから答は明らかである。


私は今、大したものを持っていない。
これからも持つつもりはない。
ただ1つあるとすれば、私のこのブログ(を製本したもの)だけは、真に私を理解してくれる者の手に渡ることを望む。
ただ、残念ながら、今のところそのような人はいない。
まあ、書き飽きるほど書いたが、自業自得。


今これを託せそうな人は1人だけ思い当たるのだが、当人の迷惑になるだろうから、ここには記述しない。