書名:「子猫殺し」を語る――生き物の生と死を幻想から現実へ
著者:坂東 眞砂子, 佐藤 優, 小林 照幸, 東 琢磨


良書。
「動物愛護」を訴える人には是非読んでもらいたい一冊。
本書を読んで、自分が訴えていること、やろうとしていることはいったい何なのか、そしてそれを人に訴える(そして行動をとってもらう)とはどういうことなのか、考えてもらいたい。
命に関わることは、きれい事だけでは済まない。
考えることで訳が分からなくなるかも知れない。
だが、それでも考えて欲しい。
本来、この問題は一般に考えられているほど簡単な問題ではないのだ。
訳が分からなくなる方がよほどまともである。
100円募金すれば1人の人間が救われるのだと心から信じている人は幸せな人だが、それで世の中が平和になっていれば、世の政治家は皆、宗教家に転職しているだろう。
世の中はそんなに単純ではない。


本書に採録された坂東氏のエッセイの中で、坂東氏が自ら語った「子猫殺し」という行為そのものについては、私は否定的である。
私は(勿論自らがペットなど飼わないからこのような無理難題をふっかけられる訳だが)、そこまで考えているならば、生まれた子猫を全て養うべきだと考える。
生命に優劣などない。
もともと等価なものに対して順位付けをするのは人間の勝手であり、その順位付け・優先度付けに沿って行われた行為を肯定することは出来ない。
だから、どのような理屈をこねようとも(板東氏自らが自嘲的に述べているように)、その行為は人間のエゴでしかないのである。
間違えても「猫の幸せを考えて」などと書いてはならない。
「私の独断で」とすべきである。


だが、板東氏が提起した問題は重要な問題である。
我々はこれを無視するわけにはいけない。
まして、何も考えずに脊髄反射的にいわれのない誹謗中傷をぶつけることで「臭いものに蓋」をしようとするなど言語道断である。
(このエントリも炎上してしまうかな、こんなこと書いたら)
人は、自らが、他の生物を殺して生きていることに、もっと自覚的になるべきである。


私が、不殺生を説く者や自称ベジタリアンを好まないのは、彼らがこの命の問題から逃げているようにしか思えないからである。
彼らは、「殺すことはいけない」と説く。
では、植物は生物ではないのか?
細菌は?ウィルスは?
(科学的な分類は別にして。観念的に)
それこそ霞を食べて生きているわけではないので(霞に命はないのか、という問いも問いとしては十分成立する。ナンセンスではない)、我々は「生きて」いる以上、日々他の「生物」を「殺して」いるのである。


では、死んでしまえば良いのか?
即身仏がその解か?
しかし、その体は既にその人1人のものではない。
人間(に限らず全ての生命)はその体内に様々な生命を宿らせている。
自殺はそれら様々な生命を引き連れての「心中」ではないのか?


こう考えると、人間は、生きるもならず、死ぬもならず、という状態に置かれていることが解る。
では、いったいどうすれば良いのか。
自分という存在が日々他の生物を「殺して」生きているということを自覚し、そのことを受け入れるしかないのである。
ここまで考えて始めて、「生命を大事にしよう」「無益な殺生はやめよう」という言葉がほんものの言葉となる。
「私は多くの生命を犠牲にしながら日々生きているが、可能な限り無益な殺生はしたくない」という態度であれば、もっと謙虚になるはずだ。
私には、「動物愛護」や「不殺生」などとは恥ずかしくて口外できない。
そんなのは欺瞞であり、偽善であり、よくて自己満足でしかないことを知っているからだ。
その自覚があるかどうか。


本書で著者が提起した問題と、その問題を論じた3つの対談を是非読んで欲しい。
「どうにかしたい」という気持ちが嘘だとは言わない。
だが、その「どうにかしたい」は、本当に相手のためを思って出た感情だろうか?
「私が感じてしまったこの苦しみをどうにかしたい」「私に突きつけられたこのひどい現実をどうにかしたい」ではないと言い切れるだろうか?


それにしても、佐藤氏はよほど頭の切れる確信犯だ。
「真の猫好きよ、結集せよ」という言葉に多くの人が騙されて本書を手に取る(私は逆にその文言のせいで一度本書を敬遠してしまった。まあ、今回のことがあったから結局は読むことになったのであるが)。
だが、期待したような「猫擁護」のような内容は一切書かれていない。
そして(勇気ある)読者は、これまで目を背けていた現実と向き合うことになるのである。
うーん。
にくいね。