近代科学を超えて (講談社学術文庫)

近代科学を超えて (講談社学術文庫)

書名:近代科学を超えて
著者:村上陽一郎


言わずと知れた名著。
既に古典の扱いとしてもおかしくはない。
(間違いなくこれから先読み継がれていくという意味では、もう「古典」と呼んでも差し支えは無いだろう)


今更私が説明する必要はないと思うが、本書は科学哲学のエッセンスが詰まった良書である。
「近代科学」が「普遍」で「客観的」な唯一の「真実」なのではなく、その拠って立つ「事実主義」「証明主義」ですら一定の価値観や思考の枠組みから逃れることが出来ないということを明かし、尚かつそれでも「近代科学」が絶対的な「力」を発揮した原因はどこにあるのか、ということを、論の飛躍を慎重に回避しつつ丁寧に論証している。
そして、考察の結果明らかとなった、「近代科学」の「偏り」を新たな議論の出発点として、「近代科学」批判を展開していくのである。


その内容は、「科学と人間との関係(特に医学の例を通して)」「機械と人間との関係」「自然と人間との関係」「東と西」と多岐にわたるが、著者の一貫した姿勢は、安易な「アンチ近代」「アンチ科学」の立場を戒め、「現代科学」の有用性はしっかりと踏まえた上で、「現代科学」が見落としてしまったものを包括するような新たな価値を付加していく(「近代科学」が「価値中立的」であるという「幻想」はここまでの議論で既に論破されている)という「第3の道」を取るべきである、というものである。
特に「環境問題」に対してなされている、「人間の営為そのものが自然であり、科学による自然の改変もまた、『自然』の働きであり、その結果なのである」という指摘は、現在でも止むことのない(いやむしろ「環境問題」が一種のファッションにすらなりつつある現在ではよりその傾向が強まっているとも言える)科学と自然を対立させ、自然破壊の全ての因を「科学」に押しつけるという安易な考えに対して反省を促す貴重な指摘である。
このような優れた論考が30年も前になされていたにも拘わらず、今に至るまで、「環境問題」がレベルの低い、不毛な議論から少しも進歩せずにどうどう巡りを繰り返しているのは何故なのか、理解に苦しむ。


本書の問題点を強いて挙げるとすれば、(恐らく出典が雑誌掲載論文だったからだと思うが)証明が不十分だと感じる主張がいくつかあったという点くらい。
勿論、いずれの論に関しても、無根拠のまま言いっ放しというのはないので、そこら辺のいい加減な形而上学の書と比較すれば、天と地ほどの差があるのであるが(むしろこれだけ多くの論点に言及しているのに、そのどれもが「言いっ放し」にならずにしっかりと説明されていることに対して驚きと尊敬を隠せない)。
まあ、問題点の1つも挙げてみなければわざわざ評を書く意味がないからね。
ちなみに、本書の位置づけは恐らく先生のお考えの全体を凝縮したエッセンスを紹介する、というものであろうから、一部論証が不十分でも十分にその目的は果たされていると考えて良い。


以上のように敢えていじわるな読み方でもしないと欠点すらなかなか見つからないほどの名著。
「科学」と無縁な生活を送っている人はいないと思われるので、万人にとって必読の書であると考える。
まあ、何度も繰り返すけど、今更、ね。