書名:性慾論 (1955年)
著者:トルストイ(米川正夫:訳)


東京の某大手書店の古本(文庫本)フェアで見つけた掘り出し物のうちの1つ。


トルストイの性に対する見解は、『クロイツェルソナタ/悪魔』に現れているものが有名で、自分もそれしか知らなかったのだが(『クロイツェルソナタ』は、好きな作品である。内容はほとんど覚えていないが)、まさかそのままのタイトルの本が出ていたとは知らなかった。
(本人の出版物ではないらしい。覚え書きや書簡などを集めたものだろう)


トルストイをただの、キリスト教的禁欲主義者だと思い込んでいたが、意外に(という言葉は、大作家に対して失礼だが、まあ、哲学者でも宗教家でもないしな)しっかりと考え尽くされていたのは驚きだった。


が、結局は、中世のキリスト教研究者が共有していた聖書の解釈となんら変わらない。
即ち、

  • 性交は罪であり、悪であり、なんとしても避けるべきものである
  • 「正しい」結婚のみが許容され、夫婦間でも生殖という目的に限っては容認されるが、それ以外は論外(だから、カトリックは基本的に中絶を認めないのである。余談)
  • (この辺りを主張するのはごく一部の過激な原理主義者だけであるが)本来は生殖も望ましくなく、性交するくらいなら人類が滅亡してしまった方がまし(キリスト教では、「この世」の終わりにキリストの再臨があるので、本来、人類が絶滅することは何ら嘆かわしいことではない)

といった、思想である。
個人的には結構好きな思想なのだが、やはり「グノーシス」には見劣りする。


で、肝心の本書でトルストイが述べていることは、このようなキリスト教の原典に沿った解釈なのである。
しかし、先に「驚きだった」と記述したように、トルストイ独自の特徴が本書には見られて非常に興味深かった。


1つは、トルストイの主張が、単なる「理想論」にとどまらず、具体的に取るべき行動を記した「現実論」であるということである。
トルストイは、「結婚」を容認する。
ただし、本人が自らの性慾をコントロールできそうになく、そこから自由になることが出来ないと思われる場合のみ、という消極的な認め方である。
(だが、大半のものは結婚せざるをえないだろう、と述べているように、トルストイの論はどこまでも現実的である)


2つめは、「結果」ではなく、「姿勢・態度」を要求している点である。
トルストイは「結果」としての禁欲ではなく、禁欲的であろうとする努力・態度を要求する。
(だから、彼は欲望の対象から遠ざかることでその危険から逃れようとする僧のあり方を非難する。この点に関しては私も意見を一にする)
即ち、精神的(キリスト教的世界観で言えば、「魂的」)なものを肉体的なものよりも重視する。
この辺は実はものすごく「キリスト教」的(正確には、「プラトンキリスト教」的)なのだが、年月と共に原典から離れて形骸化しつつある現実のキリスト教の指導者よりも過激で原理主義的となっている点が面白い。


3つめは、人類の目的(の1つに)「性からの完全な解放」を挙げているところである。
トルストイにとって、人類の究極の目的は、自らの欲望から完全に自由になる(即ち自らの肉体を超克する)ことであり、生殖を行わない(行えないのでもなく、行えなくするのでもなく、行「わない」)ことで、子孫が絶えてしまうことは、その目的を達成した結果であるというのである。
逆に、自分ではこの欲望から逃れ得ない人は「結婚」をして、生殖を行い、子孫にその目的の達成を委ねる。
そして全ての人がこの欲望から解放された暁には、(生殖が全く行われなくなるわけだから)人類は自然に絶滅している、ということになる。
この目的(欲望からの解放)を達成することが人類の目的であるから、その結果としてヒトという種が耐えてしまうことには、何の問題もない、ということである。
まあ、来世があるしね。


私はトルストイのように、キリスト教を前提とした世界観にはコミットしていないので、本書の論に全面的に賛同することはいたしかねるが、基本的な方向性はほとんど同じである。
違いを明らかにするならば、まず私は人類が欲望から完全に解放されて生殖を行わなくなることで緩やかに消滅していくことを理想と考えるが、それは、生が苦でしかないから、であり、なんら「キリスト教」的目的意識に基づいた意味のある積極的な行為ではない。
端的に述べるならば、過ちを繰り返すな、ということになる。
まあ、生をどう考えるかは人の自由なので、特に他人に勧めたり、まして強制したりすべきことではないと考えているが、私自身はそのように振る舞う。
(私の消滅と共に世界も消滅するのだから、それだけで十分だ)
次に、上述の通り、私は世代を重ねることに積極的な意味を見いださないが、1つだけ、敢えて世代を重ねることに意味を見いだすとすれば、「物語を紡ぐため」となる。
人が生きるのは「物語を紡ぐため」であり、「世代を重ねること」は、その目的を達成するための手段たり得る。
よりよい物語が生み出されるならば、(間違いでしかない)生殖は容認されてもよいと考える。
(ただし、繰り返しになるが、私は嫌だ)
最後に、私は自分のことをトルストイ以上に禁欲主義者であると思っているが、それは単に私の美学の問題であり、先に述べたようになんら「宗教的」意味合いを持つものではない。
ガンディーは大変尊敬するが、ヒンドゥー教に興味はない。
仏教に関しては、最近(ヘッセのおかげで)大乗仏教を少々見直したが、やはり美しさに欠けるので特にコミットしようとは思わない。
インド哲学の禁欲、解脱思想はイスラム教の禁欲、来世に比べて遙かにましではあるが(イスラム教の禁欲は禁欲ではない。あれは論外)、それでも嘘くささは残る。
唯一認めてもよいのはキリスト教異端思想グノーシスだが、それも趣味の域を出ない。


ちなみに、本書でしつこいほど繰り返される「童貞」という単語は、読んでいて不愉快なのと、あまり正確にトルストイの主張を表せていないように見える(「常に精神的に『童貞』であり続けようとすること」などと書かれても、何か今ひとつしっくりこない)ので、出来れば別の表現にして欲しかったのだが、まあ、古い翻訳だから仕方ないか。
更に余計な話になるが、本書のタイトルは「性慾論」よりも「禁欲論」の方が適切だったように思われる。