あらかじめ失われし理想


 梅田望夫『Web進化論』読んで、失われた「大きな物語」を取り戻す術を発見したような気がした。


 「大きな物語」とは、現代思想家リオタールが用いた用語で、人々が共有する理想のようなもののことを指す。近代以前であれば間違いなくそれは宗教であるが、当時リオタールが思い描いていたのはおそらく「共産主義」のことであったと思われる。戦時中の我が国で言えば「国体」のようなものを指すと言えばイメージが湧くはずである。
 リオタールによれば、現代のポストモダン社会は「大きな物語」が失われた状態にある。すなわち「共産主義」のような共通の理想・価値というものを大勢の者が共有し、その実現に向けて邁進する、というようなことが不可能になってしまっているということである。それが「価値観の多様化」であり、「若者の政治的無関心」もこれによって説明が出来る。


 その背景には、(学生運動が失敗に終わった後のニヒリズムが蔓延した時期に若者であった)現在の若者の親の世代の「大きな物語」に対する幻滅があった。また、そのことによって捨て去られた「大きな物語」はその次の世代(すなわち現在の若者)にとっては「あらかじめ失われたもの」となってしまっていた。『動物化するポストモダン』の著者、東浩紀ポストモダン分類を大雑把に引用すれば、現在の2つ上の世代は「大きな物語」を未だ抱いており(「愛国心」といったものを本気で再構築しようとしている世代はこの世代)、その下の世代は「大きな物語」に対する郷愁をまだ強く残しているが、その下にあたる現在の世代ではそもそも「大きな物語」そのものを必要としない(あるいは存在すら知らない)ということになる。


 説明が長くなったが、私を含む現在の若者は、「物心ついた頃には『理想』は失われていた」世代であるということが上記で言いたかったことである。
 私自身は、書を好む反面、周囲の雰囲気に対して鈍感であったため、書の中で語られる「大きな物語」を社会の中で実現可能なものなのであると信じていた(そのため教師には好かれる傾向にあったが同年代の中ではやや浮いた存在であった)。従って、そのような「大きな物語」が「既に失われたもの」であったことを知ったとき、文字通り驚天動地の思いがした。


 少し抽象度が高すぎるので具体化する。私が興味を持って調べていたのはまさに「共産主義」であった。あらかじめ断っておくと、私は共産主義者ではない。共産主義の理想には共感できるところもあり、まったく共感できないところもある。特にレーニン以降の国家社会主義に関してはその必然性を疑う箇所があり、スターリニズムなどは論外である。私が調べていたのは毛沢東であったが、その独自のマオイズムの部分は抜きにしても、やはり共産主義の中で理解できる部分というのは祖のマルクスが述べた理想社会の中に限定される。その中で具体的なものを挙げるとすれば、以下の2つになる。すなわち、「能力に応じて働き必要に応じて受け取る」と「生産手段の共有(必ずしも「国有」ではない)」である。
 しかし、実際の社会では既にそのような理想は「絵に描いた餅」どころか、人々に貧困と不自由をもたらす「最悪の宗教」としての地位が確定していたのである。共産主義の理想は、ソ連では悲惨な国家財政事情として、中国では「革命」という名の大虐殺として、北朝鮮では絶対的な個人崇拝としてその醜態を露呈していた。
これらは、マルクスの打ち立てた「共産主義」理論もまた、「空想的社会主義」の域を出なかったということを証明していた。少なくとも私はそう捉えた(未だに共産主義が実現可能であると主張してはばからない人もいるらしいが)。マルクスもまた、人間というものを楽観視しすぎていたのだと。そしてそれを解決する手段は「思想改造」ではなかった。


 しかし私は、「能力に応じて働き必要に応じて受け取る」と「生産手段の共有(必ずしも「国有」ではない)」という理想を棄てたわけではなかった。結局、「共産主義」という理想に対して勝利を収めたのは、人々の「欲望」であった。(それが良いことであるとは露ほどにも思ってはいないが)国家による統制、「死の権力」による抑圧の中でもその力は失われることがなかった。そして人々の欲望を喚起する根源の存在を私は感じ取っていた。それがすなわち「コマーシャリズム」である。
 ここで私が「コマーシャリズム」と呼んでいるものは、狭義のテレビコマーシャルのことではなく、広く人々の欲望を喚起するような情報が込められた媒体全てのことである。見田宗介現代社会の理論』によれば、資本主義がマルクスの予言に反して崩壊せず、今も発展を遂げ続けているのは、「コマーシャリズム」が人々の「必要」を生物学的に本来持っている「欲望」を超えて肥大化させ続けてきたからである。私もこの見解を支持する。従って私が理想実現のために戦うべき相手は「コマーシャリズム」ということになる。


 ここで誤解の無いように私の立場を明らかにしておく。上述の通り、私は共産主義者ではない。しかし、人々に不必要な欲望を喚起させ、身体を壊すまでの労働を強いるような現在の資本主義社会は到底肯定できるものではないと考えている。そこで「コマーシャリズム」の影響を弱めることで、少なくとも人々が「コマーシャリズム」的価値観(物が全て、お金が全て、もっと欲しい)を相対化させることが出来れば、少しでも「能力に応じて働き必要に応じて受け取る」という理想社会に近づくのではないか、そのように考えている。従って、私の立場はまさにGoogleの社是である「MAKING THE WORLD A BETTER PLACE」で言い表すことが出来る類のものである(ただし、目指している方向性は全く異なるが)。


Web2.0」の衝撃


 梅田氏がその到来を予言した「Web2.0」はそのような私の「小さな抵抗」を通り越して、再び「大きな物語」を構築出来る可能性があることを示しているように感じたのである。


 Web2.0に対する梅田氏の解説で、私が注目した点は3つある。1つは「総表現社会」の到来である。これまで情報の発信はマスメディアが独占していた。これはまさに「生産手段」の独占である。そして、マスメディアを支える「コマーシャリズム」に染まった情報だけが一方的に流され続けてきた。Web2.0社会では、1人1人が自分の考えを表現するメディア、「生産手段」を持つことになる。これまで絶対であったマスメディアからの情報は相対化され、同時に絶対的であった価値観も相対化される。


 2つ目は、情報の価値に対する考え方の変化である。これまで情報の価値は、「物」と同様、独占することによって高まると考えられてきた。そして情報がそのような価値を持つ以上、利用するには対価を求めることが当たり前だった。しかし、Web社会においては、情報は多くの者に共有され、利用されることによって初めて価値を持つ。そこでは情報は検索の対象になって初めて「存在する」ことになるのである。また、課金のためにアクセスを制限する行為は歓迎されず、必然的にその情報の価値を貶めることになる。確かに、マネーを得るためには情報は独占せざるを得ない。しかし、情報でマネーを得るということそのものに対する考え方が変わってきていることが、Web2.0社会の特徴なのである。


 そして、3つ目は、まさにそのようなWeb2.0社会を支える人々の新しい価値観である。フリーウェア、オープンソースという考え方は、これまでの「全ての価値には対価を」という「コマーシャリズム」の考え方からは生まれてこない発想である。また、ウィキペディアリナックスが、同様の有料のサービス・コンテンツに劣らない有用性を保持しており、それらが多くの無償の努力の集合体から成り立っているということは、これまで「対価を得る仕事」か「対価の得られない趣味」のいずれかでしかなかった人々の労働に「対価を得ない仕事」という新しい意味を付与していると言える。そしてそれはまさに、ノーブレスオブリージ、持てる者が持たない者に対して(「尊敬」「賞賛」と引き替えに)与える行為であると私には思えるのである。ここに万人が「能力に応じて働き必要に応じて受け取る」の理想が実現される可能性を感じ取ったのである。


 これらの特徴は、冒頭に述べたように、私に「大きな物語」の復活の可能性を予感させた。そこで構築されうる「大きな物語」とは、宗教のように人々に絶対服従を強いる類のものではなく、「共産主義」のように人々に絶対服従を強いる類のものでもなく、「国体」のように人々に犠牲を強いる類のものでもなくて、「我々が住んでいるこの世界を少しでも良いものとしよう」「人類の知的財産を全ての者が共有できるようにしよう」という誰もが望んでいることそのものなのである。「みなが幸せ」「みなが平等」なんて実現しないという「大きな物語」を嘲り笑う風潮は、他人との差を強く意識させ、そこから人々の欲望を引き出し、またその差異を強調するために競争を煽るような「コマーシャリズム」が一方的に我々に押しつけている価値観に過ぎない。これまではこの社会で生きていく限り、これに対抗する術はなかったが、Web2.0の到来はそれに対抗する手段を約束しているように私には思える。


Web時代のあるべき姿とは


 上記の特徴から、私は自身の理想とする社会への期待も込めて、未来の情報社会を予測した。その詳細はここに掲載してある(上から3つめの「新メディア論」)。↓
新メディア論
その中から、今回の論旨に合うものを、2つ取り上げる。1つは、「知識の切り売りで生計を立てる者がいなくなる」ということである。Web2.0の社会では、必要な情報は全て無償で手に入れることが出来る。そのような社会において、「知識切り売り」型の商売は成立し得ない。また、そのことにより、これまで「学力」という名の記憶力の多寡が決定づけていた所得の差が(少なくとも以前よりは)緩和されると考える。


そしてそれとも関連するのが、もう1つの「作家、芸術家、芸能人、学者の総公務員化」である。まず上述のように、Web2.0の社会では、これら専門的な職業に必要な情報は全て無償で手に入れることが出来るようになる(これが羽生氏の言ういわゆる「高速道路」の概念である)。そしてそのような社会では、表現をするためにマスメディアを必要としないことから、誰でもそのような情報を発信できる状態にある。さらにこれが最も重要な点であるが、そうやって創造されたコンテンツは、すぐにコピーされて共有される。この点に関しては、私は現在の著作権保護の名を掲げた価値独占のための課金制度は、ネット社会の「知的財産は人類共有のもの」という考えに必ず屈すると信じている。従って、そのようなコンテンツから生活に必要なマネーを獲得することは出来ない。しかしそれではそのようなコンテンツの質は下がる一方であり(何故ならば生活のためには違う労働をする必要が生じ、かつ努力に見合った対価がないとなれば技術を高めることへのモチベーションを維持できないからである)、それは誰も望んでいない事態である。これらのコンテンツは、最初の1回の創造においては固有の価値(すなわち対価が支払われる価値)があるのだが、それをいったい誰から徴収すればよいか。ここまで考えると、これら特別な技術を持つ者は全て公務員として国(勿論世界政府でも構わない)が雇い、全ての者が税金として彼らの創造物の最初の1回に支払うという社会が必然的に導き出される、と私は考えたのである。勿論、彼らは全ての者によってその作品や活躍ぶりを評価される。その評価に応じて対価が支払われるようになれば、「共産主義」の悪しき「平等」がこれらを駄目にしてしまうようなことはないだろう。多数の支持を得られないような者、あるいは作品は、独自のパトロンを見つけるしかないが、それは現状となんら変わることではなく、特にこの制度固有の弊害ではない。


Web時代を私はどう生きるか


 人間が人間らしく生きていくために、「大きな物語」は必要である。少なくとも私はそう考える。「大きな物語」を失い、日々の生活と自分の欲望の充足にしか興味をもたなくなれば、早晩人は動物と変わらなくなる。間主観性を失い、欲望−快楽の回路が閉じた者を「動物」と呼んだコジェーヴの用語をもとに、東浩紀氏は自著『動物化するポストモダン』の中で、自己の快の中に閉じこもるオタクたちを「動物」と批判したが、「大きな物語」を失った人間の辿る道はオタクたちのそれとまったく同じようになるだろう。そして現代思想用語としての「動物」の段階を経て、やがてほんとうの意味での動物になってしまうだろう。それは人間の破滅を意味している。


 私の美学はそれをよしとしていない。私は新たに訪れるWeb時代の中で、ネットという新しく手に入れたメディア(生産手段)を用いて「コマーシャリズム」に戦いを挑む。既に戦いは始まっている。Web2.0が持つ特長を無化し、Webという新しいフィールドも自らが生き長らえるためのエネルギーとすることを目論む「コマーシャリズム」は、ネット社会の成功者を取り込み、Web2.0への流れをWeb1.0の方向に引き戻そうとしている。
 私は、人間が人間らしく生きるために、そして自分自身人間らしく生きるために、そのような「コマーシャリズム」と徹底的に戦う。そして、ネットという環境で生まれた奇跡のような思想(例えばコピーレフト)が新たな「大きな物語」として人々の間で共有されるようになるよう、あるいは上述したようなWeb2.0がもたらすべき「未来」(例えば全てのコンテンツが無料で(ただし最初の1回にはみなで正当な対価を支払って)共有される社会)が訪れるよう自分に出来る精一杯のこと(例えばこのようにブログに文章を書くこと)をする。


 かつての共産主義者に比べると自分のしようとしていることはあまりにも小さく、思想的に洗練されてもいない。しかし、彼らがあれほどの人数を要しても成し遂げられなかったこと、すなわち全世界の人々に対して自らの考えを(強制なしに)訴えるということを、私は自宅で座っていながら行うことが出来ている。これこそWebが全ての人にもたらした新しい力であり、私が希望を取り戻したのもこの力に未来を見たからなのである。


ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

書名:ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか
作者:梅田望夫


「ウェブ時代をゆく」欲しい!


・・・欲しい、と書くと私も立派なマテリアリストだと自分で言っていることになり(しかもしっかりとコマーシャルしている)、これまでの論となにやら矛盾することになるようだが、これはルールだから仕方ないか。本当に仕方ないのか?