7/13である。
お腹が痛いが、書き残したブログが山のようにある。
・・・まだ死ねない。


何か私がいるフロアで、民族大移動が起こるらしく、私もそれに巻き込まれてブースを移動することになった。
私の移動予定日は月曜にしていたのだが、荷物が極端に多い(勿論本)のと、私は移動を業務だとは見なしていないので、夜中中に移動してしまうことにした。
夜中ってどのくらいかというと、開始が24:00過ぎで、終了(というよりも、パソの配線を終えたところで諦めた)が25:30くらい。
勿論、翌日に響いた。


で。
本棚を壊した
・・・・・・。
知っている人は「またか」と思うかも知れないが(例えばこの日のブログとか、多数。「本棚」で検索入れると、いろいろひっかかる)、これは自宅ではなく会社の備品である。
壊れ方もこれまた「またか」というパターン。
そう、キャスターの金属がねじれたのだ。


既に経験はしているから警戒はしていたのだが、寝不足からか判断が鈍っていたのかもしれない。
始末書、書かなきゃならないのだろうか?(たぶん大丈夫だと思うけど・・・)
それよか、何で会社にそんなに本を置いてるのよ。

わかる! 使える! 広報活動のすべて (PHPビジネス新書)

わかる! 使える! 広報活動のすべて (PHPビジネス新書)

書名:わかる! 使える! 広報活動のすべて
著者:山見博康


わからん!使えん!広報ってなんぞや
というタイトルにでもしたらよかったんじゃない。
酷評の理由は読んでみたら解ると思う。
いや、読んではならない。
時間の無駄だから。


この人本当に広報のプロだったんだろうか。
確かに、マスコミ関係者と仲良くするんだといった「具体的」??な話は散見されるが、大半は独断と偏見と自分用語に満ちた「心構え」の類で、実際には何の役にも立たない。
「道徳的に優れた人間になれ」って、弱肉強食の世界の最も泥臭い現場にいる広報担当者に言う言葉じゃないでしょ(別に狡賢さを要求する必要はないけれども)。
ていうか、実用の書を謳っているのに、なんで具体的なノウハウがほとんど出てこないのさ。


完全に著者の自己満足のために書かれた本で、なんら役に立たないので注意。
もっと良い本は他にいくらでもあるはず。
(このシリーズにもこんなに使えない書が紛れているとは思わなかった。あ、でもそういえば前のやつもひどかったな。次からは尚のこと警戒しよう)

生きるのが困難な人々へ 孤独について (文春新書)

生きるのが困難な人々へ 孤独について (文春新書)

書名:孤独について―生きるのが困難な人々へ
著者:中島義道


恐らく読了は7/9。
まとめて書いているのは、決して「ブログのタイトルを考えるのが面倒になった」からではない。
決して。
断じて。


駄作。
中島義道の書が好きな人(私もその1人)も、本書だけはやめた方が良い。
比較的初期の作品だと思うが、ひたすら自分の話だけ出てくるので、つまらないことこの上ない(例えばこのブログのようなもの。ああ、つまらない。自分で読むしか価値がない。でも自分で読んでもつまらない)。
『ウィーン愛憎』を読んでいないから解らないが、この頃の中島義道は、まだ自分の悲惨さを切り離してパロディにすることが出来ていないので、読んでいても面白くない
中島義道という哲学者の著書の面白さは、自らの不幸を滑稽な「ネタ」に変えることが出来るところにある。
お勧めは、

  1. 『ひとを<嫌う>ということ』
  2. 『「人間嫌い」のルール』
  3. 『人生を<半分>降りる―哲学的生き方のすすめ』

で、この順番
あれ?でも、『人生を<半分>降りる』は、本書よりも前の出版だ。
あ、そうか、本書の場合は扱っている時期が問題なのか。
だから、その時期(少年期)を扱うのにまだその事実をパロディ化出来ていない(これは大変難しいことだと思う。私自身も少年時代はトラウマの塊であるのでまだ語ることか出来ない)ということか。
『人生を<半分>降りる』はその前の作品だが、扱っている時期が、主に著者が落ち着いた(仕事的に)後のことだったから、有る意味「面白おかしく」語ることが出来ているのか。
つまり余裕のあるなしで、余裕のない独白ほど読んでいる者を不快にさせるものはない(例えばこのブログ)<しつこい。自意識過剰なんだよ>。


上司(新設の部(6月付けで私が異動になった)の部長!)が「出張の退屈しのぎに借りるわ」とおっしゃって持っていったものの、その日のうちに、「やっぱり返す」と返してしまったほど(多分、斜め読みしてつまらないことを感じとられたのだろう)つまらない本。


中島義道の名誉のために言っておくと(上記でさんざんそのための努力はしたのだが)、本書は飛び抜けてつまらない本なのであって、この人が書くものは基本的に面白いのである。
そして、これは意外だったのだが(失礼)、この人の真面目な哲学書も面白い(例えば以前書評を書いた『哲学塾−死を哲学する』)。


ただ、本書はダメダメ。

恋することと愛すること (新風舎文庫)

恋することと愛すること (新風舎文庫)

書名:恋することと愛すること
著者:遠藤周作


読了は恐らく7/8。
まとめて書いているのは決して・・・ふがっ
(もうええわ。早く書の評を書け!ていうか寝ろ)


こんな本読むんだって?
いや、哲学的には興味深いテーマだとは思わないか?
実際に経験するのはご免だけど。
(石田衣良に言わせると恋愛ニートというらしい。私はプラトニストと呼んで欲しい。愛読書は『狭き門』『ラブレター』(浅田次郎))
あとは、これも意外と言われるのだが、恋愛小説は良く読む方だ。
好き嫌いは激しいけど(好き:江國香織とか 嫌い:男性一人称で語られる独りよがりなもの)<だから、早く書の評を書けよ>
『沈黙』や『深い河』を書いたあの遠藤周作が、「愛と恋」について真っ向から語るという企画らしいということで大いに期待した。
カトリック教徒である遠藤周作が、それぞれをどのように定義するか、特に肉欲についてどう語るかについて、不謹慎ながらわくわくしてしまった。


が、結果は期待はずれ。
遠藤周作ってこんなに頭が固い保守的な人間だっけというのが正直な感想。
まあ、時代背景もあるのかもしれないが、はっきりいってつまらない。
しかも妙なところだけ女性に対する偏見(と「本能」という便利な言葉を用いた男性性の擁護)というカトリックの特徴(ただしカトリックの女性蔑視とはまた別の相)が現れていていただけない。
フェミニストはこれを読んで抗議したんじゃないか?
(再三述べているが、私はアンチフェミニストである。ただし、セクシストではない)


有用な忠告といえば、「あまりにも早く行為に及んでしまうと男性の熱が冷めてその分早く関係は終結してしまう」というどこぞの似非心理学者でも言えそうな単純な法則のみ。
後は退屈の一言。
同じスタンダールを引いている書といえば、竹田青嗣の『恋愛論』があり、本書はこちらには遠く及ばない(最も、作家と哲学者を比較してはいけないのかも知れないが)。
まあ、ひいきの著者を擁護して言うならば、まだこの連載を始めたときには、『沈黙』も『深い河』も書いていないので、著者の水準もそこまで到達していなかったということなのかもしれない。
とにかく(少なくとも現代人には)退屈で、特に役にも立たないので、敢えて読む必要はない。