諦めてみましょか

「待つ」ということ (角川選書)

「待つ」ということ (角川選書)

書名:「待つ」ということ (角川選書)
著者:鷲田清一


■評価:優
  情報:△ 新規性:○ 構成:○ 日本語:○ 実用性:○
  難易度:難 費用対効果:◎ タイトルと内容の一致:◎
  お勧め出来る人・用途 :何かを「待つ」ことに疲れ始めている人・「待つ」とはどういうことか、今一度考える
  お勧めできない人・用途:日々の生活が充実している人・いったい「待つ」ということはどういうことなんだろう、と考えてみる


■所感

「哲学」の目的は哲学をやめることである

持論から入って恐縮ではあるが、この言葉の意味が解る人、またはまったく解らない人は、本書を手に取らない方がいい。
解る人にとってそれはもう苦痛でしかなく、ましてまったく解らない人は、間違いなくその点において「幸せ」な人であるから、何もその「幸せ」を自ら崩すような馬鹿な真似をする必要はない。
考えなくて済むのなら、考えないに越したことはない。
考えずにいられないから、本書のような書が生まれる。
本書が悪なのではない。
ただ、本書を手に取らざるをえなかった読者も、本書を書かざるをえなかった著者も、どちらも「可哀想な」人であることは間違いない。
しかしこの世の中で、自らの足で立って歩いている人のほとんど全てがこの「可哀想な」人であるというのもまた事実である。


阿波DANCE

阿波DANCE

この本を読んでその意図するところに共感できた者にとって、本書は、否、本書の問いは必要ない。
「阿呆」には哲学は必要ない。

同じ阿呆なら考えるだけソンソン


結局は巡り巡って同じ場所に返ってくるだけなのだ。
期待する、裏切られる、もう期待するものかと思う、期待してしまう、裏切られる、絶対に期待するものかと決意する、期待していないのに実は期待してしまっている、裏切られる、何が起ころうと二度と期待などはしないと固く誓う、期待しては駄目だと繰り返し言い聞かせながらそのことが頭から離れない・・・


ニヒリズムこそがまさにルサンチマンなのだ。
西洋哲学が東洋哲学に比べて遙かに「幼稚」なのは、1000年近くかけてようやくニーチェが到達した域に、東洋人は最初から到達している、ということからみて明らかである。
東洋人にとって西洋人の「苦悩」は滑稽でしかない。


ただ、だからといって西洋人が東洋人より劣っているわけではない。
「力」は「苦悩」からしか生まれない。
現状への不満がなければ、現状を変えようとする「意志」は生じない。
苦しみ悩み抜いた結果として彼らは「力」を手に入れた。
東洋人が到底考え及ばないような圧倒的な「力」を。


人を支配する「力」、その1つに「時間」がある。
西洋の「時間」の概念こそが、彼らをして「前へ」と進ませる原動力となった。
「始まり」から「終わり」までが一直線の、「時間」の概念こそが、「発展」という考え方を可能にし、それを可能にしうるための「力」への希求となる。
さらに「発展」という概念が「より良い」への渇望を喚起し、その渇望がさらなる「発展」への原動力となる・・・。


そこでは、もはや「待つ」ことは許されない。
ひたすら「前へ」と駆り立てる大きな流れの中で、ただ1人その場に「とどまる」ことは不可能である。
それは圧倒的な濁流の前に立ってその場に踏みとどまることに等しく、到底、小市民の成せる業ではないことは想像に難くないだろう。
そうして誰もが「待つ」ことが出来ない世の中が形成されていく。


本書は批判の書ではない。
純粋に「待つ」ことを追求するとどういうことになるか、その過程を慎重に、かつ冷静に述考している。
全ての哲学的「問い」に答えがないのと同様、結局は堂々巡りに過ぎない。
ではその過程に意味があるのか。
結論から言うとそれもない。

では、本書を読むことには何の意義があるのか。

その問いこそが、本書を読むべき者であることのまさに証明である。


ここまでの文章を読んでしまった「可哀想な」あなた。
あなたは、残念ながらもう本書を手に取らざるをえないだろう。
申し訳ないことに、私がその扉を開いてしまったから。


■読了日
2011/04/09