ここにいるじゃないか

志のある人と
力を持っている人が
一致していないことが問題だと思うんです

あの時私は不遜にも大ジャーナリストに対して噛みついた。
大学3年の時のことである。


田原総一郎さんは「何それ?」という顔で、

じゃあ、君がいう「志」って何なの?

という主旨の質問をなさり、私は持論の「ノーブレス・オブリージュ」について訥々と語ってみたものの、結局実のある議論にはならなかったように記憶している。


あの時の思いは私の中でずっと燻っていた。
つい最近までは。
しかし・・・。


ここにいるじゃないか
府中市議会議員候補 須山たかし さん
http://ameblo.jp/suyamatakashi/day-20101013.html

こんなにも身近に、「志と力」を備えた人物がいたことに気がつかなかったとは。
単に見落としていたのだろうか。
否。
私の問いの立て方が間違っていたのだ。


「志」とは、悲観的な指標や事例を引き合いに出しながら、
さも国の行く末を憂えているかのようなポーズを取ることではない。
目の前で困っている人に手を差し伸べるためには何をしなければならないか、
自分と自分の周りにいる人たちがより「よく」暮らしていくためにはなにをしなければならないか、
それらのことを「自分のこと」としてとらえ、
実際に行動に移すまでに至る衝動のことを真の「志」というのである。
ポーズならば誰でもとれる。
酒席で天下国家を論じることが「志」ならば、そんなもの誰にでもある。
だが、真の「志」とは、
それを抱えたまま「鬱屈と」していられるような生半なものではない。


そう、だから、「憂う」だけでは収まらない、
溢れんばかりの「志」を抱いたものは、必ず立ち上がる。


そして、「志」から立ち上がることそのものが「力」となるのだ。
勿論、「力」には大きさがある。
立ち上がったその時点での「力」は微々たるものであろう。
しかし、「志」から発した「力」は、必ず人々の心を動かす。
それら人々の協「力」を得た「力」はもはや小さな「力」ではない。
天下国家に揺さぶりをかけ、人々の思いを知らしめることの出来る「力」なのである。
だから、「志」を抱いて立ち上がったものは必然的に「力」を持った者となるのである。
私の問いの間違いは、「結果」のみをみてその「過程」から目を逸らしていることにあった。


今、ここに、こんなにも身近に、私の待ち望んだ

志と力を併せ持つ

人物が現れようとしている。
その方は周りの人々の協「力」を集めて着実に「志」を実現する道を歩み始めている。
私は、微力ながらも私の持てる資源を用いて、その方を支援したいと思う。
それは、(勿論これが主たる理由であるが)純粋にその「志」に感応したからであり、
そしてそのことで私の中で燻っていた「間違ったルサンチマン」を是正することが出来ると信じているからである。


何よりも、

真に天下国家を憂う「志」があるならば、
それは必ず「行動」という形を取らざるをえなくなるはずだ

という、最近になってようやく気づいた私自身の理解に従うならば、
その方に及ばずとも僅かばかりの「志」を備えていると信じている私自身が何も行動しないのはどう言い訳しても筋が通らない。


「志と力」の乖離がもしあるとするならば、それは私たち1人1人の「志」が、
この方のような真の「志」を援護するだけの「力」を提供できていないことが原因なのではないか。
僅かでも「志」があるというならば、自らの持てるだけの「力」を、
この方のような真の「志」の元へ提供するくらいのことぐらいはするべきではないか。


天は民、国家は地方の集まりである。
今、我々1人1人が出来ることはなにか。
それを考えた場合、取るべき行動は1つであると思う。


私は、須山たかし さんを全面的に応援します。