だが、結局は、私の生に対する姿勢が、私をしてこの集まりに参加せしめた。
1つは、「断らない」という姿勢。
「断る」ことにより、自分が陥りそうな危険をあらかじめ避けて回るということを潔しとしない。
(というよりも、それ以前に、セルフエスティームが余りにも低く、自分のことがどうでも良くなっているので、理由もなく自分の好き嫌いで「断る」ようなことはしない、というだけなのだが)
「断らない」で苦しみ、或いは破滅する。
望むところだ。


もう1つは、誘惑から逃げ回り、自らを欲望の発生源から隔離することによって潔癖を保つことに、果たして意味があるだろうか、というスタンスである。
ヘッセの『シッダールタ』を読め、と。
だから私は世俗から離れ、「出家」した者がどれだけ無欲で道徳的に立派な人間であったとしても、その人を尊敬しない。
また、それで「解脱」だ「悟り」だなんていうのは、ちゃんちゃらおかしい(断っておくが、私は仏教徒ではない。強いて言うならガンジー主義者となるだろうが)。
真に己の煩悩を滅却するならば、むしろ積極的に己を危険な場所に投じてそれを克服していかなければならない。
「隠れて生き」ている者よりも、世俗の中で己を保っている者の方がよほど精神の修練度は上である。


だから、私は逃げも隠れもしない。
状況の中へ己が身を投ずる。