私はキリスト教徒だった。
ルター派プロテスタントで、堅信礼を受ける一歩手前までいっていたから、何というか、その道を進みつつあったと言えるだろう(その時の堅信は受けなかった。面倒にでもなったのだろうか。或いは、私の「脱キリスト教」が始まったのが、丁度その時だったのだろうか。その準備は、結局中途半端なまま終わった)。
しかし私は自ら意図してキリスト教徒になった訳ではない。
(私のような立場の者が「自らの意志で」信仰の道に入るための儀式が、まさにその「堅信」なのである)


ここでこれ以上のことを語ることはよそう。
私は彼らを責めるつもりはない。
憎しみは何も生み出さない。
今、私が自由であるという事実だけで十分だ。


兎に角、ある時から私は自らの意志でキリスト教徒であることを否定し、ニーチェに傾倒して自らニヒリストを名乗るようになった。
最初に私が神を捨て、同時に私は神に見離された。
それは私が世界を拒絶し、そのことによって私が世界から拒絶されたのとほとんど同じ時期のことである。
世界を拒絶する
そう、アンドリューは私なのだ。


今でも「主の祈り」を諳んじたり、とある賛美歌を暗唱できたりする。
だが、私は既にキリスト教徒ではない。
神の教えに背きし者、言うなれば背教者だ。
それ以来、啓示らしき夢をみたことが1度ある(そしてそれはあまりにも鮮明だったので今でもその内容を覚えている)。
だが、今の私はそれを受け入れない。


私は、他の人に現れる神までは否定しないが、自分にとって神はないと信じている。
これは、理性的判断によるものではなく、純粋に超理性的な直観、信仰によるものである。
私は神を否定したのだ。