5/10である。
17:00からのバドミントンの前に早めに出かけて、通り道に新しくできた○クドナルドを偵察してこようかと(勿論PCスポットがあるかどうか。それ以外に○クドナルドを利用する理由はない。今注文できるメニューはソフトドリンクしかないからな)思ったが、結局こうしてブログを書いている。
東京レポートはあと1日分、書評は1?冊分、上京前の愚痴が少々(そっちはいいや。どうせ後で読み返しても時間の無駄でしかないし)、Zの感想と富野論がまだ残っているのである。
・・・そういえば。
だいぶ前からその日より前のエントリに、その日の予定や行動を書く(例えば今日は、5/10だが、5/7と5/8に今日の行動や行動計画の記述が散っている)癖がついてしまっているが、これは後から読んで混乱しないだろうか。
・・・今更何を言う、というところか。
まあ、大事なものにはタグが付いてるのでそれでよしとするか。


この日は、仕事を定時で抜けて(といっても勿論定時で帰れる訳もなく、その後会社に戻って残業リミットぎりぎりまで仕事してましたが)、病院へ。
上京前の通院をさぼったので、常服薬のストックが底をついていたのである。
この日、次の日と、それぞれ別の科に常服薬をもらいに病院がよい。
いい加減、うんざりする。
私は未だ現役・・・どころか働き始めである。
慣れることはない。


待合室(どんな待合室でも)に置いてあるテレビが耳障りだ。
私はテレビはNHKニュースとサンデーモーニングサンデープロジェクトしか見ない。
その他の番組(特に民放、特にバラエティ)に1分1秒たりとも己の時間をとられたくない。<けちだな。そう生き急ぐなよ>
待合室のテレビは、見たくない者にとっては邪魔者以外の何ものでもない。


この日は、連休明けということもあり、予想通り大混雑であった(薬もらうだけで90分待った)。
この機会に、この次の日に行われる打ち合わせのための参考資料、下記書籍を読み切ってしまおうと思っていたのだが、途中で思わぬ邪魔が入った。
ドラえもん」である。


私はかつて「大長編」(「映画」ではない。「大長編」と呼ぶのだ)の新作が出る度にそれを購入し、何度か知人と映画館に足を運んで観ていた(高校生がドラえもん!!)ほどの入れ込みようだったが、藤子先生がお亡くなりになり、武田鉄矢が詩をかかなくなってからは、全く見向きもしてなかった。
(短編も一応揃えていたが、東京を離れるに辺り、大学の知人に全巻寄付した。短編に関してはあまり思い入れはない)


それから、声優陣の世代交代があり、周囲からは「ひどくなった」「あんなのはドラえもんじゃない」とさんざんひどい評判を受けていた(良い評価は1つも聞かなかった)が、既に興味関心を失っていたので特に気にしていなかった。
勿論、「新」ドラえもんは1度も見たことがなかったのだが、この日待合室で運悪くオンエアされている場面に遭遇してしまったというわけである。
(テレビの音は基本的に無視しているのだが、さすがに「ドラえもん」は解ってしまった)


1度気にかけてしまうと基本的にはもう無視できないので(無視しようとしても集中の半分は持って行かれてしまっているからあまり意味がない)、本を読みながらちらちら眺めてみることにした。
絵のタッチが変わってしまっていることに関しては、以前から(まあ、コマーシャリズムとはそういうものだからね)知っていたので大して衝撃を受けず。
声も確かにひどいと感じた(特にのび太か。誰なのかが全く解らない)が、それは「慣れ」の問題であって、旧来のドラえもんを知らない世代にとってはこれが「正しい」ドラえもんなんだろう。
それを頭ごなしに否定しているだけでは、新しい世代とのコミュニケーションは断絶してしまう。
人間には寿命があり、人が生き続ける限り変化というものは避けられないものであるから、これは受け入れていくしかない。


だが、(きちんと見たわけではないが)物語の組み立て(とそれを構成する1つ1つの場面の出来)のひどさには目をつぶるわけにはいかなかった。
何だ、この破天荒のストーリー展開は。
時間の流れや前後のつながりへの考慮も、「科学的」裏付け(論理整合性)も、人間ドラマも、SF的(すこし不思議な)雰囲気も、どれも欠けている。
子供だましにもほどがある。


キャラクタの設定と果たすべき役割も完全に間違えている。
のび太がいっちょまえに「空の先には宇宙がある」、なぞと説明しているし(その役割は出来杉ドラえもん→しずか の果たすべきものだろう。間違えてものび太が理路整然と宇宙について語るなどとあってはならない)、ジャイアンは妙になよなよしていて意気地がないし、ドラえもんのび太のいいなりになってしまっているし、とこれはもう既に「ドラえもん」ではない。
(絵や声の移り変わりは仕方ないにしても、人物描写と物語まで変わってしまっては、もうこれは別の作品としか言いようがあるまい)


ああ、データベースだけを取り出して、そのつなぎ合わせで作品を作るとこういうものになるのか、と東氏の「データベース消費」を思い出しながら、「今の子供達は可哀想だな」と言う思いを禁じ得なかった。
また藤本さんのような素晴らしい感性の人が現れて、子供達に夢を与えるような作品を作ってくれれば良いなぁ、と切に願った。
(ドラえもんは残念ながらもはやただの商品に過ぎない)