なぜ生きるのか

これに関しては、もう10年以上も考えてきた。
「哲学」は思考を重ねれば重ねるほど深まっていくという印象をもたれることが多いが、実際はそうではない。
少なくとも「ニーチェ以後」を知るものにとって、それが如何に馬鹿げた楽観主義であるかは改めて確認するまでもないことである。
何せ「真理」は存在しないのだから。
(となると、このタグそのものが無意味となるが、まあ、私は「論理」に対していい加減であることが生きることだと思っているから、これ以上追求はしない。そのあたりは「哲学屋」あたりに任せておけばいい)


では、世の「哲学者」達は、長い年月をかけていったい何をやっているのか。
私に言わせれば、大半の自称「哲学者」(私を含む)は、ソクラテスが批判した「ソフィスト」以外の何ものでもない。
まあ、相変わらずの傲慢な暴言はおいておいて。
「本物の」哲学者は、青年期の直観をまとめ、整理し、どうにか他の人にも解る形で伝えようともがき苦しみながらアウトプットを試みているのである。
これは、若いときに読んだ本(清水真木の『ニーチェ』だったか?まったく覚えていない)に書いていたことだが、私は今でもそれは真実だと思っている。
性格に関しては、「三つ子の魂百まで」と言われる人間だが、思想に関しては、「二十歳の直観百まで」というところか。


かくして、私の「二十歳の直観」(実際には18くらいだったのだが)は、この問いに対して早くも

人生に意味はない

という結論を出していた。


青年期にありがちな「自分は特別」という百害あって一利なしな思い込みから抜け出すのに4年ほどの歳月を費やしたが、至った結論そのものは間違いではないと今でも思っている。
だが、驚くべきことに、世の大半の人間が、「人生に意味などない」と思っているのである。
驚くべきことに。
これには笑うしかない。
己の傲慢さに、である。


閑話休題


さて、

生きる理由などない

という結論で長く満足してきた私であるが、最近少々違った考え方をするようになった。
といっても、宗旨替えをしたわけではない。
生が無意味であるという主張を取り下げるつもりは毛頭ない。
ただ、この問いを2つに分けるべきではないかと考えるようになったのである。
即ち

人は「なぜ」生きるか

人は「何のため」に生きるか

である。


こう考えるようになったのは、「なぜ生きるか」の答えとして、「結局生きたいから生きているんだよね」という事実を認めざるを得なくなったからである。
それまで私は「惰性で生きている」「積極的に死を選ぶことは生に『意味』を与えることになり、それは自分の思想に反する」「いつ死んでも良いが、とりあえず生きている」などと様々な言い訳を探してきては、自らの「力への意志」を否定してきたわけだが、何度も絶望的な状態を経験し、日々痛みや苦しみから逃れること能わず、乗り物には乗れず(小さいことだけど現代社会では致命的な欠陥)、といったことを経験し、さんざんブログで醜態を晒しながらも一向に死のうとしない自分を観察するに至って、もはやこの言い逃れは通用しなくなったと感じるようになったのである。


そこでしばらく封印していた「なぜ生きるのか」という問いを改めて問い直してみたところ、意外にもすっきりとした答えが出た。
つまり、

なぜ生きるのか

という前者の問いに対しては、

生きたいから生きる

という答えがふさわしいということである。
人は死にたければ死ぬが、そうでなければ生きるのである。
生きているということは、積極的であれ消極的であれ、死ではなく生を「選んで」いるという点において、「生きたい」と思っているということである。


では、私は「生きたい」と思っているのか。
ここで私は何度か説明を試みた私の3分裂状態についてもう1度説明をする必要が出てきた。
素直ではないのである。


私は、自分が今、3つの私に分裂していることを自覚している。
1つは肉体としての「わたし」。
もう1つは、肉体に影響を受け、逆に肉体からも影響を受けている精神としての(わたし)、即ち「自我」。
そして最後は、そのいずれも「超越」した(と自分では思い込んでいる)、純粋理性としての<わたし>である。


この中で、<わたし>の思い通りにならない肉体としての「わたし」が、「生きたい」と思っている主体である。
では、消滅を望んでいる(そしてこのブログの色を文字通り黒く染めている)私はいったい誰なのか。
それは、恐らく(わたし)であろう。
しかしその(わたし)は肉体である「わたし」の影響を強く受けている。
そういう意味では、消滅を望んでいる私は(わたし)であると同時に「わたし」でもある。
これは、まさにフロイト理論の境地であるエロースとタナトスそのものであろう。
そして、超越者としての<わたし>はその両方を眺めてその一切の衝動を否定し、無価値の立場から生も死をも否定する。


このような構図が見えてきたということは、<わたし>の純粋性がより高まったことを示している。
肉体の「わたし」の影響を受けている(わたし)の思惟から自らを切り離すことで、(わたし)が感じている死に対する憧憬や恐怖を冷たい目で眺めることが出来る。
そして、その観点から見たとき、やはり「わたし」は生きることを欲しているようにしか見えないのである。
タナトスに魅入られている(わたし)も、「わたし」に引きずられて結局生を選ぶことを余儀なくされている。
いや、むしろ積極的に「生きよう」としている。
それは勿論矛盾であるが、人の「心」が矛盾していないことが未だかつてあっただろうか?


そして、前者の問いを切り離すことにより、改めて後者の問いに答えることが可能となる。

私の生には目的がない

「何故生きるのか」に対する答えは「生きたいから」であるが、「何のために生きるのか」に対しては、「何のためでもない」という答えとなる。


考えてみれば非常にシンプルなのであるが、なかなかここまで整理することが出来なかった。
肉体は常に思惟の敵である。
軟弱な肉体に宿る軟弱な精神も、また。


そして、今度の上京が示しているように、(わたし)は、自らの「何のため」を新たに「自分と関わってきた自分の手伝いを必要としている全ての人に献げるため」としようとしている。
それはそれで面白いのではないかと<わたし>は嗤っている。