というわけで、今回の「走る!」は、生身の私ではなくて、私on自転車ということで、よろしく。<あんた誰に向かって話してるのよ>


最近はめっきり少なくなったが、時にカフェインが身体に最適な効き方をするときがある。
そのタイミングで運動をすると、普段私を悩ませてやまない痛みや苦しみが嘘のように消えて無くなり、身体がふっと軽くなって、(わたし)が消える。
(わたし)と「わたし」の境が消滅し、「手足を動かしている」という感覚がなくなる。
そして、空気と「わたし」との境もはっきりしなくなってくる。
その時、私は、風になる。


自転車の上の私は、足と靴とペダルの境が消滅し、サドルに腰掛けている感覚もなくなり、ハンドルは手と一体化し、ただ、ただ、前に進むだけの、そう、風となるのだ。


もっとも、このドラッグハイとでも呼ぶような状況は、1時間と続かず、その間の無理はしっかりとダメージとなって帰ってくるのだが・・・。


それはただひたすら快を求める動物の姿となんら変わりがない。
人はみな快楽主義者なのだ。
人が死という最大の快に身を委ねることなく、この苦しみしかない生を消極的にせよ選んでいるのは、「快」への期待を保ち続けているからに他ならない。
人が唯一求めるもの、それは快であり、快への期待が断たれたとき、人は最大の快、死に身を投じる。


快とは苦からの解放であり、生からの解放であり、忘却であり、思考の放棄であり、無であり、空であり、消滅であり、つまるところ、死そのものである。
快を求めることは死を求めることである。
だが、人は「死」そのものまでもは求めない。
何故なら、出来るだけ多くの快を出来るだけ長く感じていたいからだ。
だから、注意深く「死」を避けながら、日々小さな「死」を繰り返している。
死して生き返り、生に耐えかねて死に、再び死の快楽を得るために、生きる。


快に差異はない。
知的好奇心を満たす行為も、性行為も、座禅や瞑想といった行為も、利他行為も、食や睡眠といった行為も、歌うという行為も、自己犠牲という行為も、皆、快を求めるという点では同じである。
人によって、何に快を感じるか、即ち何によって自我の忘却が得られるか、死ぬことが出来るか、その違いだけである。
快に高尚も低俗もない。
快はただ快である。
死に意味も意義も無駄死にも犬死にもない。
死はただ1つの快に過ぎない。


しかし、それは長くは続かない。
天にも届こうかという昂ぶりは一瞬にして消え失せ、翼はもぎ取られて、再び苦しみの奈落へと突き落とされる。
心地よい眠りからたたき起こされたときのあの不快感。
何故、そのまま眠らせてくれなかったのか。
何故、そのまま死んでいてはいけなかったのか。


愚かだという。
満たされることはないという。
だが、それでいい。
いずれ死する運命なのだ。
死して無になれば、それまでの過程が快多き人生であったか、快少なき人生であったか、人生において何度死んだか、そういったことは全て無に帰す。
ならば、死にたいだけ死ねばよいのだ。


勿論、同じならば可能な限り生き続けるという選択肢もある。
快すなわち死、生すなわち苦しみ、そのどちらをよしとし、そのどちらを求める行為も等価だ。
ただし、快を避け、苦しみを積極的に引き受ける行為もまた、己の快の追求以外の何ものでもない。
なぜ修行をするのか。
なぜ快を避けようとするのか。
それは、その行為そのもの、その行為によって得られる興奮、その行為によって得られる満足こそが、快そのものであるからに過ぎない。
人は、快楽主義者であることから逃れることは出来ない。


既に「生きて」しまったものは、もはや生から逃れることは出来ない。
だからこそ、生から解放されるその日まで、その苦しみから解放されるための小さな死、快楽を求め続けなければならない。
このような快楽追求から唯一自由なのは、まだ「生きて」いない者たち、自我の目覚めを迎えていない者たち、即ち幼子である。
エスは、幼子をさして「天国はこのような者たちのものである」と言った。
それは幼子がまだ「生きて」いないからなのだ。
彼らは快を求める必要のない、「天国」に住んでいる。
だが、彼らもいつか「地獄」に引きずり下ろされる時が来る。
既に「地獄」の苦しみの中にいる大人たちの手によって。
そして彼らは初めて「生」を知り、苦しみをしり、それから逃れる手段としての「快」を知るのである。


天国も地獄もこの世界の中にある。