[8/31 追記]
仮に神が我々と同じ「人格」を持っているとすれば、この世界をわざと不完全に作り、1人1人に対してその人にとって最も困難な状況を与えてその経過を楽しむだろう。
私が神なら、絶対にそうしている。


まさに、慰み物である。


だが、仮に我々が神の慰み物であったとしても、或いは神など存在せず、我々は運命の指示に従って行動しているロボットに過ぎないのだとしても、私は私の物語を紡ぐことをやめない。
それは人間の存在意義が、まさに「物語」を紡ぎ出すところにあるからである。
(その存在意義が「与えられもの」でしかなかったとしても、少なくともそれを積極的に受け入れるか拒絶するかの自由は、人間に残されているはずだ)
私にとって物語を紡ぐことと生きることとは同義である。
死はその人にとっての物語の終焉を意味している。


私が物語を紡いでいくのは、神の歓心を買うためでもなければ、運命のなすがままに流されていくためでもない。
結果的にはそうなっているかも知れないが、私は私の物語を紡ぐことそれそのもののために、私の物語を紡ぐ。
そのためには、この困難は甘受しよう。
これは、私の物語なのだ。