私塾のすすめ ─ここから創造が生まれる (ちくま新書)

私塾のすすめ ─ここから創造が生まれる (ちくま新書)

書名:私塾のすすめ ─ここから創造が生まれる
著者:齋藤孝,梅田望夫


梅田さんが関わった著作の中で、初めて「これはいらない」と思った書。
本人の書かれた著作は全て秀逸で、語録は素晴らしく、対談も平野氏・茂木氏共に有意義なものであったが、本書はあまり意義のない対談であった。


梅田さんは既に「著述業のサバティカル」を宣言された後であり、語られる内容もそれこそ「感想戦」のような感じになっている。
これまでの梅田さんの著作を読んで来た者が読めば、「ああ、あれはこういう意図だったのか」とか、「梅田さんが対象とされていた読者とはこういう人だったのか」といった感想を持つことができるが、恐らく梅田さんの著作を読んだことのない人が読むとちんぷんかんぷんだろう(尤も、この企画ではそういう読者は想定していないのだろうが)。
いずれにせよ「後日談」であり、それ以上ではない。


斉藤氏の教育論に触れたのは本書が始めてであるが(残念ながら私の中での斉藤氏は「声に出して読みたい」の人、である。『座右のゲーテ』は積ん読状態)、正直言って何をしたいのか解らない。
残したいものがあり、それは非常に大事なものだ、というのは理解できなくはないが、それは「大事だ」と思う人が一生懸命やればいいことである(ちなみに私は「素読」は重要であり、可能ならば残したいと考えている。だが、それは現在の教育が抱えている問題においては氷山の一角でしかないと思っている)。
努力しても届かないような「あこがれ」を全員に抱かせることには反対であり(それはその人の幸福を阻害する)、「喝采を浴びることの悦び」等は百害あって一利なし(動機付けは内発的であるべき)と思う。
要は斉藤氏の教育観とは真っ向から対立しているのである。
私は、「公」教育の役割は自立して生活できるだけの最低限知識を身につけさせることにあり、まずはそれに専念すべきと考えている。
人格の形成や「生きる力」の獲得など画一的なカリキュラムの中で一斉に行われる学校教育などで可能になるはずがない(「学校」という社会生活で学ぶことの意義は失われていないから、環境を整えることは大事である。しかし、「教える」ことは出来ない)。
まあ、それはいい。
一応テーマは「教育論」ではないのだから。


本書で唯一読み応えのある章は梅田さんが対談をリードされている、第3章「『ノー』と言われたくない日本人」のみである。
ここで梅田さんが現代の若者に対して忠告していることは大変重要なことであり、肝に銘じておく必要がある。
自分のやろうとしていることを理解してくれる人などそうそう見つかるものではない。
数を打つ覚悟と失敗に耐えるタフネスがなければ、何も手に入らない。
(ただ、梅田さんも斉藤氏もある意味「強者」で、タフな心身をお持ちだろうから、若者の軟弱さをじれったく思われることがあるかも知れないが、若者の打たれ弱さは、人によっては「根性論」でどうにかなるようなレベルをとうに越してしまっている場合があるということは知っておいてもらいたい。この「打たれ弱さ」は生まれてから現在に至るまでの過程で築かれたものであり、既に人格が完成してしまっている成人の段階で矯正することは難しい。それこそ「教育」が取り組むべき最優先の問題である。)
ただしこの話自体も梅田さんの近著『ウェブ時代をゆく』にて既に語られているから新鮮味はない。


敢えて本書の効用を挙げるとするならば、梅田さんの主張をおさらいすること、ぐらいだが、それは既存の著書を精読する・ノートにまとめることでも可能である。
残念ながら、この組み合わせで何か新しいものが生まれることは期待できない、そう思わせる対談本だった。