ザ・ギバー―記憶を伝える者 (ユースセレクション)

ザ・ギバー―記憶を伝える者 (ユースセレクション)

書名:ザ・ギバー―記憶を伝える者
著者:ロイス・ローリー, Lois Lowry(掛川恭子:訳)


チャレンジングな本。
アメリカ人ならきっとこう言ってどうにか肯定的に評価しようとするんだろうな、ということを考えながら頁を繰っていた。
同期の方から貸して頂きました第7弾。
人から借りた本を読むと、つい途中で感想をどう書くかということを意識した読み方になってしまう。
借りた本でなくても、よく「これはこう批評してやろう」という雑念は入るのだけれども、借りた本だと特に。


ブログを書くというのは面白いもので、意識し出すと日々の生活の中で必ずある一定の領域をしめるようになるらしく、「あ、これは今日のブログに書こう」とか「今日のブログはこう書いてやろう」とか、「ええい、あいつのことをブログに書いてやれウッシッシ」とは思わないけど(何せ匿名ブログなので)、そんな感じ。


閑話休題
要は、「伝えようとしていること、その試みは解るんだけど、はっきり言ってつまらないよ」ということが言いたかったのだ。


問題なのは本書が児童書だということ。
問題と言っても本書そのものの問題ではなくて、あくまで「本書を私が読むこと」の問題。
別に私は児童書を読まないわけではない。
ただ、児童書にも2種類あって、それは大人でも読める児童書(大人の読者も意識して書かれていることが多い)と、完全に子供向けの児童書である。
で、本書は前者を目指して書かれたのだろうが、結果として完全に後者になってしまっている。
大人がこれを読んでも退屈だろう。
共産主義も管理社会も恋愛や性愛も知らないような子供が読む分には面白いのかも知れないが。
ちなみに前者の例としては、『星の王子様』や『飛ぶ教室』、J.R.Rトールキンの作品(『ホビット』『指輪物語』)などがあるが、これは例を挙げるまでもなかったか。


すぐに比較するのは悪い癖だが、結末は『ダレン・シャン』の方が面白かった(どちらもかなりこちらの予測と合致していたが)。


語りに関しても、「薬」という科学的説明と、科学的説明を放棄した「記憶の伝承」とが混在している。
中途半端なファンタジーは、読者を戸惑わせる(狙ってやったのかもしれないが、感心は出来ない)。


それにしても。
児童書の賞を大人が決めるというのはいかがなものか。
大人は既に子供の頃の感じ方、センス・オブ・ワンダーを喪失している。
大人が読んで、「これはためになる」とか、(やや好意的にとらえるとするならば)「きっとこれは子供が読んで何か感じるものがあるだろう」と判断した本が、子供にとってそうであるとは限らない。
児童向けで賞を受賞した作品の中には、(1)大人にとっては意義深く面白いが、子供にとっては退屈きわまりないもの (2)大人にとっても子供にとっても味わい深く読めるもの・奥が深いもの (3)子供にとっては読んで楽しめるが、大人にとっては退屈以外のなにものでもないもの (4)子供にとっても大人にとってもつまらなく、時間の無駄でしかないものの4パターンが考えられる(というより受賞云々に拘わらずこの4つしかないのでは)。
この本は(3)なのだろうが、私は既に大人(精神は幼稚だが)の視点から判断しているので、実際には(4)なのかもしれない(子供には難しすぎてなんのこっちゃ、となりそうな気もする)。
で、長々と書いて何を訴えたかったかというと、児童文学の賞は子供に決めさせろよ、と。
大人が読んで楽しめる本はたとえ児童向けでも、児童向け限定ではない賞で評価すればよいのである。
本書の内容とは直接は関係はないが、読みながら考えたことなので記しておく。


貸していただいた方には申し訳ないが、「傾向と対策」の成果はまだ発揮されなかったようで(次もぼろぼろに書く、という予告ですかなこれは)。