私は何故「最後まで読む」ことにこだわるのか


つまらない本を最後まで読むのは時間の無駄だという指摘を受けたので、ネクラらしくブログで反論する(ひどいなぁ)<いや、どちらかというと考えをまとめ、記録しておくためにブログは書くのだが>。


私は本を最後まで読むことにこだわる。
端的に言うと以下の3点がその答えだ。


1つは、批判をするためには最後まで読む必要があるということ。
これは批判をする上での最低限のマナーであると思う。
2つ目は、私が文脈主義(個人的な用語としては「物語」主義)をとっているということ。
本は全体で1つであり、部分を読んだことはその本を読んだ部類には入らない(半分読んだというのはその本を半分読んで半分理解したのではなく、全く読んでいないのと同じという主義)。
3つ目は、最後に大どんでん返しがありうるということ。
最後の最後で評価が180度転換することがある。
まあ、今までの経験だとつまらない本が突然意義深い本になるということなどまずもって滅多にないのだが。


詳述する。
1つ目は、マスコミなどでよく問題になる「発言の一部を切り取ってこれを非難する」という最低の態度を避けるためにも、守りたい。
世の中の批評家には1字も読まずにその本の評を下す人もいるようだが、私はそれを愚の骨頂だと考える。
これまで面白い作品を書いていた人の作品の中にも駄作はあるし、ひどい本ばかり書く人の中にも面白い本はある。
論の展開や文体、日本語にはいらいらさせられるが肝心の結論は素晴らしいという本もある。
とにかく、読んでないものを断じる愚を避けるために、私は自分で最後まで通して読むことにこだわる。
これはマナーであると同時に、美学でもある。


2つ目に関しては、単に主義主張のレベルではあるが、自分の中では徹底したい原則である。
文は物語の中で始めて意味を持つ。
それは文章においても同じことである。
「馬鹿」の意味は文のどこでどう使われるかによって千変万化するし、「あいつは馬鹿だ」の意味は文章の中でどのようにも捉えられ、「あいつは馬鹿だ。本当に馬鹿な奴だ。コンチクショウ!」の意味は物語の中で様々な意味合いを帯びうる。
それは段落や章節の単位になっても同じことである。
たとえ短編集でも、私はその全てをまとめて1冊で1つの物語とみなす。
勿論個々の物語にも言及はするが、その短編集の中での位置づけを忘れない。
とにかく私は全体で1つの物語として捉えるので、断片で断じることはしない。


3つ目に関しては、具体例を挙げる。
例えば『アルジャーノンに花束を』という有名な作品がある。
この作品はよく知られているように知的障害のある主人公の日記の形式で書かれているのだが、その冒頭は、てにをは(原文は英語なので文法や綴り)の間違いが多く、ひらがなだらけで読みづらい。
また、特に面白いことを書いているわけではない。
もしこの本を「つまらない」と断じて読むことをやめてしまっていたら、この本の素晴らしい物語と意義深いテーマに触れることは永遠になかっただろう。
この例の場合は勿論「前評判」というファクターが大きく作用しているのだが(序盤はつまらなくても「きっと面白いはず」というモチベーションを持ち続けられる)、そうでない本でもこのような可能性がないとは限らない(上述したように直感で「あ、これはだめだ」と思った本の評価が覆ることはまずないのだが)。
従って私はどんなにつまらなくても、本は最後まで読む。
その本を最後まで通して読むことは勿論のこと、「読む」と決めたシリーズも基本的には通して読む(勿論キャパシティーの問題があるからいくつかは打ち切ってしまう。しかし、いくら読む時間がなくても、人生から逆算してまあ読み切るのは無理だろうと思われても、読む意志を持ち続ける)。
そして、読み終えていない本の批評はしない(その時点での感想は述べることがあるが)。
3つ目の例に該当する本として、昨年読んだ『阿波DANCE』と『ダレン・シャン』シリーズを挙げておく。
前者は最後の最後まで、後者は前半2/3にあたる8巻ぐらいまで、目も当てられないようなひどいものという感想を抱いていたが、最終的な評価はそれなりのものだった(たぶん・・・ああ、これこれ)。


以上の理由から、私は本を最後まで読み通すことにこだわる。
技術書や実用書の類は(基本的なスタンスは変わらないが)この限りではないのであしからず。