3/1である。


さんざん皮肉も書いたが、私も好き勝手やらせてもらっていた。
見知らぬ土地での初めての社会人生活で、人に寄りつかない性格の私にとって、黙っていても受け入れてくれる、そのような集団が心の支えになっていたのだということを、今失おうとするときになってようやく理解しつつある。
東京にいたときも、実際にはそのような集団の中にいて、そのことで支えられていた。


他人のことには興味を持たないが、自分のことには興味を持って欲しい。
そのような我が儘で自意識過剰な(しかもその上ひねくれた)性格が社会で通用するはずがない。
「独りで」生きてこられたのは、居場所があり、支えがあり、適度な干渉があって、その見えないぬくもりの中にあったからである。
求めずにいられたのは与えられていたからである。
私が我の中に埋没して、ヘッドフォンから聞こえる自分の声の中に閉じこもっていたときにもそれはいつも私を落ちないように包んでいた。
死ねなかった、生き残ってしまった、醜くも生きてしまったのは紛れもなくそいつのおかげで今はまだ少し恨みめいたものも残っているのだが、これはやがて感謝に変わるのだろう。
未だに素直に感謝の念を抱くのは気持ち悪いのだが、その気持ち悪さをいだけるのもまたその支え合ってのものだということぐらいは解るようになってきている。
ショーペンハウアーになりきれないのだから仕方がない。


残念ながら組織名のごとくその紐帯は弱く、存続に向けたエネルギーは乏しかったようだ。
崩れるなら崩れるままとひいていたのだが、今はまた別の感情が到来しているらしい。

感情で行動するのが正しい人間の生き方だ


15の時からの私の人生の師匠は語る。
抑圧してきた感情の復讐に苦しんでいる今になってその言葉を思い出している。
誰よりも感情を抑えてきた彼が、それを語っていたことを私は覚えておくべきだった。


私の感情は今、私に行動を命じている。
無精な私のことだ、時間がかかるだろう。
人に頭を下げることの嫌いなこの人のことだ、機会あるごとに躊躇するだろう。
熱しやすく冷めやすいこの人のことだ、少しの困難で行き詰まり、再び動き出すまでかなりの時間を要することになるだろう。
だから、動かぬ証拠として記すことに意味がある。


居場所は自分で作り出すしかない。
お前がそれを望むのなら、自分でそれを実現させろ。

求めるな
されど行動せよ


放擲の精神で無常な社会に1人挑む。


まずは練習場所の確保。
(体育館1つ探すのに大袈裟だなぁ)