村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)

村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)

書名:村上春樹河合隼雄に会いにいく
著者:河合隼雄, 村上春樹


想像通りの良書。
この組み合わせは正解だった。


購入したのはだいぶ前で、ずっと読みたいと思っていたのだがなかなか読めずにいた。
たまたま春樹の話題が出たので数多ある積ん読の山から引っ張り出してきた。


本書の前半は一言で言うならば比較文化論である。
具体的に言うと村上春樹のカルチャーショックについて、となるだろうか。
春樹が日本を離れた経緯、向こうで感じたこと、そしてやはり日本語でなければ小説は書けないと思ったことを語り、河合隼雄が適宜日本人のこころのあり方と欧米人の(時には欧と米それぞれの)こころのあり方を説明しながらその感覚を「言語化」していく。
この中で、翻訳に本業と比肩するほど精力的に取り組んでおり、スマートな訳文を展開している(これは確認していないので想像)春樹が、あのアメリカ文化に親和しているかのように見える春樹が、自分はやはり日本人で、日本語で思考し、日本語でしか小説は書けないと語るくだりは何故かほっとさせるものがあった。
別に自分の英語力のなさからくるルサンチマンではない。
自分もまた、この国の文化や人のあり方に違和感を感じつつも、やはり自分は日本人で、日本語で考えることしか出来ないと感じていたので、この春樹の告白になにか安心させられたのである。


中盤は他者理解について。
「夫婦」という特殊な関係や、「学生運動」「オウム事件」といった社会の風潮などは単に話しの流れで出てきただけで、この対話の主題ではないはずだ。
中盤の主題はあくまでも他者理解だろう。
そしてこれはまた春樹の書く小説の一つの重要なテーマでもある(はず)。
従って内容は必然的に彼の作品の話に移行していく。
この中で私が特に秀逸だと感じたのは、春樹の「人々は稚拙な物語を求めているのではないか」という発言である(河合隼雄の補足において「稚拙」は「素朴」と言い換えられているが、どちらかというと私もこちらの方がうまくこれを言い表しているように思う)。
まさにその通りで、だから学者や有識者が難解な言葉や構造を造り込んでいけばいくほどそれは本来の人間の欲望を離れて倒錯的となり、彼らはは彼らだけの閉じこもった世界の中で人類には何の役にもたたないオタクと化していくのである。
先日読んだ著作の中の福岡氏の発言にもあったように、「解りやすく言い換える」ことこそが求められていることであり、その模索の過程で難解になってしまうことは仕方がないとはいえ、最終的には知識人の方から降りてこなければならない。
彼らには「大衆の言葉で」説明する義務があるのである。


やや話がそれたが(きさまこそ偉ぶってないで「大衆の言葉で」語れ)、後半は春樹の作品、主に『ねじまき鳥クロニクル』に関する話と、彼のこれまでの作品に対する彼なりの理解(それが絶対的に「正しい」と言わないところに春樹が「本物」である証を感じる)が語られる。
彼の小説の読者として意外な発見が多かったがそれについてはここでは語らない。
彼の作品を読まれたことがある方、興味のある方はご一読されたし。
(なんか適当にまとめたな)<おかしいなぁ。読み終えたときにはもう少し興奮していたはずなんだけどなぁ。>


それにしても。
いい加減この裏表紙とか帯の説明(特に帯)にもう少しまともなことを書けないものだろうか。
この本は別にポジティブな生き方の指南書でもなく、結婚生活の勘どころを提示した書でもない。
これらは読者の理解をいたずらに混乱させるだけで何の役にも立たない。
後で内容を思い出そうとして見てもおそらく書かれていることとは違うことを思い出してしまうだろう。
帯は昔から諦めていたが、裏表紙までもこうでは・・・。