2/13である。
家に帰って、食事と睡眠しか活動しなかった日は極度の後悔に見舞われる。
録画した討論番組(勿論サンデープロジェクト)を見ながら本を読みつつ食事していても、時間を無駄にしているような強迫観念から逃れられない。
なぜだろう。
こんなに焦っているのは。


この年まで生きているつもりがなかったからかもしれない。
特に根拠やシグナルがあったわけではない。
単に間違った美学からそう信じ込んでいただけなのだろう。
しかし、私は今の年齢以降の人生など想像すらしていなかった。


かつて私は「明日自分が何をしているか想像できれば私は明日死ぬことはない」という根拠のない確信を持っていた。
だが、それはまだ私が全てを諦める前の頃の話だ。
今は明日の自分のイメージすら上手く描けない。


仕事は気を紛らせるのにちょうどいい。
会社に行っても仕事がない、退職して急にぼけた、という人の気持ちが解るようになってきた。


死に急いでも仕方がない。
今のところ自死以外の手段ではそう簡単に解放してくれそうにない(風邪は年に1度くらいしかひかないし、胃腸も年々ひどくなっていくもののもう5年も経つのに未だになんの病気にもなっていない(らしい))から、まあ、しばらくはこの無能な自分とつきあっていくしかないのだろう。


だが、これは焦りとは別に。
「世界は何故いかにして物語か」は今年の7月までには必ず仕上げる。
それが彼の名を語るものとしての最低限の意地である。