恋愛に関しては以前、竹田青嗣の良書を元にまとめたレポート(HPにて公開)の末尾に、なぜ私は恋愛をしないのか、についてまとめたことがある。
基本的にはその時点と立場は変わらないのだが、事情が変わった部分(主に健康面)と小賢しさ故の本音でない部分があるので、この機会にもう一度まとめてみる。
(そういうくだらないことばかり書いているから恋愛が出来ないのだよ)<そんなことは百も承知で生きている>


まず、その可能性が断たれているという点から述べる。
これは私の身体的な問題そのものであると言っても良い(正確には身体ではなく神経なのだろうが)。
既述のごとく、私は現在外出に問題を抱えている。
遠出はおろか、時には会社にたどり着けないのではないかと思えるような状態になることもしばしばである。
電車以外の乗り物に長時間乗っていたくない。
電車も出来れば知っている人と一緒に乗りたくはない。
映画館に2時間座っていることが出来ない(1人ならどうにかなるかも知れないが)。<わたし>は平気なのだが、私の身体はそうではないらしい。


翼を持った自由な人をそのような私に縛り付けることは酷いことだと思う。
私にはとても出来ない。

私の苦しみは君の邪魔で


巡り来る春に by GARNET CROW


ただそれは、結局のところ2番目の理由に関係してくることだが、私自身の人間不信が根底にあるから解消されない問題なのである。
この病気は(少なくとも医者の所見では)心理的なものに負うところが大きいものなので、支えてくれる存在がある方が病状は安定するはずなのである、少なくとも理屈の上では。
それが、人に会う時の方が(7:3くらいの確率で)状態が悪化するというのは、私自身が相手に対して極端に構えているからに過ぎない。
結局この人間は、昔からずっと自分以外を頼るということをせずにここまで来たのである(勿論自活している現在はまだしも、親の庇護下にあったときに「誰にも頼らずに生き」ることが出来ていたはずがない。おそらくそこの依存部分はこの人の中で都合良く無視されいたのだろう。いずれにしてもこの人の人間不信は根が深い。それも誰かに裏切られたという類の人間不信ではなく、疑いと自己過信から生じた人間不信であるから、やはり自業自得である)。


そして、その人間不信が何から生じたかといえば、これが第3番目の理由に直結していて、プライドの問題となる。
中学生(或いは小学生か?)の時に『プライド、このやっかいなもの』という本を図書館から借りて読んだことがあるのは、恐らくそのころから自覚していたのだろうが、この御仁、無駄にプライドが高い。
幼い頃に伝記ばかり読んでいたからだと思うが、実力不相応なプライドが形成されてしまったようだ。
そして、小賢しさから、人や障害と正面衝突してプライドを砕かれるという経験をしてこなかった(そのような場面から逃げ回っていた)ため、本来は修正されるはずのその性格が直らずにここまで来たのだろう。
幸いにも誤った「認識」は修正されたが、性格までは直るに至らず、未だに孤高であることが己のプライドを保つ唯一の手段であるかのように錯覚しているらしい。
たぶん人に噂されることなどが耐えられないのだろう。
恐らく相手に従属させられるということも。
ここら辺は自己分析でも(防衛機制が働いているのか解らないが)ぼんやりとしか把握できないから推測に過ぎないが。


で、そのプライドの裏返しというか、そのプライドが作用して現在の卑屈さが生じている。
これが第4の原因である。
理想の自分があって、何かになりたかった自分がいて、何かになれなかったという事実と理想から遠ざかるばかりの自分の能力との比較において、私は現在でも私自身を赦せていないのだと思われる。
何度か書いたが、卑屈さは尊大さの裏返しである。
おそらくF尺度で測ると私は極度の「権威志向」となるはずだ。
別に威張り散らしたいとか、強大な権力を持ちたい、といったことではない(深層心理ではそう思っている可能性もあるが、それは「わたし」の責任ではない。この点に関しては自分を制御できる自信はある)。
自分より優れた者に対する絶対的な服従(それは卑屈さとなって現れる)と、自分より劣った者に対する蔑視(すなわち尊大さ)である。
私の場合は誇大な自信を抱いていたことの裏返しとして、自分に対するあらゆる自信を喪失した。
この強烈な劣等感は、私をして他の人間に対して卑屈にならしめるに十分なものである。
プライドと卑屈さとは一見相容れないものにみえるかもしれないが(だからこそこの説明は困難を極めるわけだが)、高いプライドを持ってしまったものほど惨めな自分には耐えられないものである(自殺してしまう人もプライドの高い人が多い)。


結局は等身大の自分を認められなければこの問題は解決しない。
それが出来ていないことが第5の原因である自分嫌いを呼び起こしている。
この自分嫌いは昔からあって、私の攻撃衝動の元にもなっていたのだが、いわゆる「キレる」自分に嫌気がさして(中学校の頃まで私は「キレやすい」子だった。それは誰に言われなくても自分が一番承知している)、その衝動を内に向けるようになってから次第にエスカレートするようになったのだと思われる。
しばらくは表に現れなかったため、この変化に自分自身気づいていなかったのだが、ブログを始めて(2003年)、自分の書いたことを読み返すようになって初めてこの事実に気づいた。
理想と現実の自分があれば、駄目な自分を理想の自分に近づけていく(まるでラカンだな)ことが好まれる・・・のは学校時代ぐらいで、実際に社会に出れば、駄目な自分に適当に折り合いを付けないことにはあまりの自己嫌悪に耐えきれずにそれこそ死んでしまう。
で、この人はここまで惨めでぼろぼろな状態に追い込まれてもまだ理想の自分を捨てきれず、そこにはほど遠い状態にある現在の自分を許すことが出来ないでいるのである。
かつて相手を傷つけることになってひどく後悔した発言があるのだが、「私は自分が嫌いだ。だから、私は自分が好かれる理由が分からない」という言葉に嘘偽りはなかった。
人の心の動きに対してかつてよりは賢くなった今では、その過ちは繰り返さないと思うが、最後にはこの自己嫌悪を乗り越えることが出来ないから私は逃げてしまうだろう。
結局恋愛というものは自己愛の域を出ないのだから、相手に好かれ、相手に好意を寄せる自分を少なくとも認めてやらないことには成立しない。


最後に、根の深い問題がある。
結局この人は常に「見る側」にいたいのだ。
自分は常にコミットせず、少し離れた位置から観察していたい、そう考えているのだろう。
そして大概そういう人は、自らが「見られる側」となること、世界にコミットすることを忌避する。
結局、見る側にいたい、という願望は、常に相手より有利な位置にいたいという度量の狭さであり、何かあったときに自分だけ助かろうとする小心さなのである。
この、自分は常に自由な立場にいて、人を見る側に立ちたいというのは傲慢な考え方なのであるが、これもまた身に染みついてとれなくなった悪い性格である。
私の場合はこれに加えて常に非難する側にいたい、という深層心理があるように思われる。
何故恋愛が非難の対象となると考えているかは、恐らくキリスト教的肉体への嫌悪(そもそも最近は有機物という存在が嫌悪の対象となって来た。代謝を必要としない無機物の方が有機物よりも「高等」な存在のように思えてならないのである)と我々の社会の恥の文化によるものなのであろうが、要は自分だけ良い子でいたいという未熟さを克服できていないだけなのだろう。


他にも美への耽溺、音楽への逃避、破滅願望など色々と原因はあるのだが、基本的にはクリアしなければならない問題は上記の6つなのだろうと最近は考えるようになった。
複雑である。
ねじれている。
ひねくれている。


このねじれを紐解くことを私は相手に要求すべきではないと思うし、期待もしていない。
この人は人を不幸にこそすれ、幸福にすることはない。
それは物理的にも精神的にも、そうである。
強いて言うならば、このこんがらがった状態を吹き飛ばすだけのエネルギーを備えた人、となるのだろうが、そんな人いるのだろうか。
私だったらまずこのようなひねくれた人には関わらない(始まりましたね、自己嫌悪)。
このような人間には孤独こそ相応しい。


(少なくとも私にとっての)至上の愛とは相手に死を与えることであり(それは象徴的な意味でも現実的な意味でもよい)、そしてその可能性は皆無に近い。
だから私は求めない。
与えられることを期待しもしない。
座して死を待つのみである。