08/01/01である。
このペースだと明日には2007年の総括が出来そうだ(生きていれば。今日も夕食はほとんど摂れない状態)。
去年の総括を参考にしてみようと、検索をかけたのだが・・・。
こーんな記事やあーんな記事がひっかかって、もうさんざん。
実は2004年からまともな総括など1度もしていないことが判明。
この人、本当に駄目人間。


今年最後の休日出勤は、定時を1時間ほど過ぎた頃に、チームリーダーが「帰ります」と言って帰ったので、私もそれから1時間以内に堂々と退社。
普段はものすご〜く後ろめたい気持ちで、それでも翌日のことを考えると限界の時間なので、チームでも最も早いタイミングで退社させてもらっている。
ちなみに私はチームで最も早く帰る人だが、それでも会社には12時間以上いる。
私より早く来て私が帰るときにまだ帰る気配すら見せないあの人やあの人はどうやって生きているのだろう。
朝来たら午前2時に出されたメールがあるんだけど、この人、何時に帰ったんだろう(直属の上司です)。
ともかく、とんでもない集団の中に私はいて、その集団は現在紛れもないデスマーチのまっただ中にいて、私は身体を壊して一人脱落しかけている。


(とまあ、この日も実は書くことがほとんど無い。
というよりも12/23からの日記には確かに書くべきことと書きたいこと(そして毎度くだらぬ詩もどき)があったはずなのだが、昨日のストレスと腹痛でその大半がふっとんでしまった。)


あ、そうだ。
せっかくだから私は何故走るのかについて書いておこう。
この週実際に走って帰ったのは月曜と木曜なのだけど。


何故走るのか。
最初それは「失われた体力を取り戻す」ためのつもりだった。
その素っ頓狂な思考の経緯についてはここに書いてある。
今読んでも何考えているのかほとんど意味不明だけれども。
まあ、ともかく、失った体力を少しでも取り戻そうという魂胆で始めたのだ。


しか〜し、しかぁ〜し、あ、しかぁ〜〜〜しぃ〜〜
(なんでそこで見得を切る必要があるのだ?)
え〜、おほん。
最近の日記を読めば想像がつくだろうが、この帰宅ランニング、少しも功を奏していないのである。
むしろただでさえ疲れている身体にさらなる疲労を増し加え、敏感になっている胃腸に無駄な刺激を与え、帰宅後の食の消化を悪くし・・・と短期的に見れば大いにマイナスの効果となっている。
長期的にこれがどうでるかは解らないが、少なくとも客観的に見て、心身ともにまいっている今、敢行すべきことではないということは素人目にも明らかである。
そもそも帰りに走るために朝徒歩で出社するのだが、それすらも身体を冷やして気分が悪くなり、会社にたどり着けないのではないかと思ったことも1、2度ではないのである(それはそれで大いに問題だと思うぞ)。


が、私は走る。
何故か。
走っているときが、唯一無になれる時であることを知ったからである。


私のように神経質な人間は往々にして自意識の活動が異常に活発である。
わたしは常に<わたし>によって見張られていて、その一挙手一投足に評価が与えられる。
その張り詰めた状態は特に他者の視線があるところで強くなる。
他者の視線が緊張を高めるのではなく、他者の視線により活性化した<わたし>の視線が私を問い詰める(これを自意識過剰という。<わたし>が私を気にしているほど他者は私のことを気にしていない。しかしそれを知識として知っていても何の役にも立たない)。


他者の視線がないところでも<わたし>は常にわたしを監視している。
自己嫌悪は<わたし>が現在のわたしの状態に対して非難を行うことで発露する。
私のような人間は、常に自己嫌悪に苛まれているような状態にある。
他にどう評価されようがそれを正当なものとみなすか、根拠のないでたらめなものと見なすかは結局自分である。
しかしこれもまた、知識として知っていても何の役にもたたないことである。


近年の<わたし>は私の身体も監視するようになった。
特に問題のない状態でも常に身体の状態を監視し続け、終始、必ず何かしらの不調をみつけてそれを訴えている。
おかげで私は365日24時間、ひとときも体調が良好であると感じることが出来なくなってしまった(これは勿論誇張で、寝起きのぼーっとした状態やわずかな躁状態の時には気分が良いと感じることがある。しかし、最近ではこの時間はほとんど訪れず、記述の通り1日中不快を感じていることの方が多くなった)。


走っているとき、私は無となる。
その時初めて、わたしは<わたし>の目から解放される。
今は体力の低下から、走っている状態を維持することに精一杯だからかも知れない。
ともかくその時<わたし>はいない。


これは睡眠中の状態に酷似している。
しかし最近は眠りが浅く、夜中目覚めることも多く、寝起きの状態は最悪で、これに時間を空費したという自己嫌悪がついてくることを考えれば、睡眠は必ずしも快ではない(永遠に目覚めないのならばよいのだが)。


結論からいうと、<わたし>に苦しめられているわたしにとって、走ることは快なのである。
自我の監視から逃れ、無我の境地を目指す修行僧の気持ちが最近にしてようやく分かってきたような気がする。
かといってそれは私にとってとうてい認められることではなく、ニヒリストたらんとして今日もまた自らの苦しみと向き合って生きるのである。
情けないランニングは肉体の苦痛と引き替えに、つかの間の休息を与えてくれる貴重なひとときとなりつつある。