手塚治虫「戦争漫画」傑作選〈2〉 (祥伝社新書)

手塚治虫「戦争漫画」傑作選〈2〉 (祥伝社新書)

書名:手塚治虫「戦争漫画」傑作選〈2〉
著者:手塚治虫



Ⅰがひどかったというのに何故かⅡを勝ってしまった。
性格に因るのだろうが、まんまと出版社の販売戦略に乗せられてしまった気がしてあまり機嫌はよくない。


だが、ⅡはⅠに比べるとかなりよい選集であった。
理由は2つある。
1つは扱っている戦争が主にベトナム戦争であるということ。
2つ目は、1つ目と密接に絡むのだが、そのせいで収録されている作品が単なる「反戦平和」漫画となっていないということである。


1に関しては、自分たちが直接的に関わっていない(間接的には大いに関わっているが)戦争ということで、余計な感情移入や後ろめたさを排除した作品がかけるということが大きい。
太平洋戦争では自分たちに大いに非があるという後ろめたさと、非戦闘員を大量に殺されたこと、その後復興までに辛酸をなめさせられたことなどに対する感情が妨げとなり、教科書的な「反戦平和」ものになってしまう。


そこで話が2に繋がるわけであるが、授業で「道徳」を教えれば犯罪者がいなくなるということが起こりえないことと同様に、通り一辺倒の「反戦平和」ものを読んだものが戦争を起こさないということは全く期待できない。
そういう意味でステレオタイプな「反戦平和」ものは戦争の抑止という点では全く役に立たない上、「反戦平和」に対する退屈や嫌悪を植え付けてしまうという
点でマイナスですらある。


戦争とその中で行われる残虐行為は、人間の性(さが)が引き起こすものであり、国籍や人種、性別や年齢という日常が与えた記号というものはその場に於いて起こりうる事態を何ら制御しない。
主に男と大人が加害者で女と子供が被害者となるのは武器の偏在が原因であって、武器の分布によっては加害者被害者は容易に逆転しうる。
手塚漫画のすごいところはそういった状況をリアルに再現してみせるところであって(それでも時代の影響かステレオタイプなストーリーの方が圧倒的に多いといえば多いのだが)、それにより戦争が「制御できるもの」であるという誤った認識を改めさせるパワーを発揮するのである。
戦争は多くの人が死ぬから、多くの人が苦しむからやってはいけないのではない。
自分と愛する人たちが死ぬから、自分と愛する人たちが苦しむからやってはいけないのである。


しかしどれだけ観念的に戦争の非を理解していても、人はいとも簡単に戦争を許容する。
だから、真に戦争を止めうるものは「人の死」だけなのである。
人間は、目の前で人が死ぬ事実を見て初めて、或いは自分が死んで初めて、戦うことをやめるような愚かな生き物なのである。
だからせめて戦争に踏み切るまでのハードルを高めるための努力としては、可能な限り現実に近い、擬似的な死を見せつけ、或いは体験させる必要がある。
だからといってどこかの反戦左翼が支配する県の反戦教育のようにやたらめったら死体を見せつければいいというものではないのだが。
自分とは関係のない他人の死や死骸には猟奇的な好奇心すら抱くというのが人という愚かな生物なのだから。


感情移入し、愛した相手が、目の前で、待ったなしに、最後の科白をはくこともなく、残虐に殺されて、一瞬のうちに醜い死骸と化す、そういう衝撃的な疑似体験だけが、真の反戦へのエネルギーとなる。
手塚の漫画(の一部の作品)にはそれを読者に体験させる力がある。