書名:経済学的思考のセンス―お金がない人を助けるには
著者:大竹文雄


副題に惹かれて買ったが、あまり「貧しい人を救う話」は書かれていなかった。
代わりに、スポーツを例に取った「インセンティブ理論」が数多く述べられている。
これらは確かに「貧しい人を救う」ための政策を考えるのに役に立つ視点である。


目の前の困っている人を救いたかったら、(自己を犠牲にして)その人を自分で救えばいい。
「草の根」運動が意味を持つのは、その人たちが接する人たちだけである。
これは純粋に「愛」の問題であるから私には興味がない。
そうではなく、困っている人一般を救いたいと思ったら、政策レベルで考えなければならない。
その際に必要なのは、経済学者のモットー「冷たい頭に熱いハート」である。
政策レベルで考える際に下手な「情」が挟まると、多くの人を巻き込む大惨事を招きかねない(「ゆとり教育」がまさにその典型的な例である)。
大事なのは「冷たい頭」で考えること。
そのために人を自由意思を持った個人と考えるのではなく、インセンティブに左右される合理的経済人の衆として考えるのである。
その「冷たさ」を持てない者は、「情が厚い」のではなく、公よりも個、さらに真に相手のためになることよりも自分の情の方を優先させる者であり、人間としての魅力はあるが、間違えても政策を託して良いような人ではない。
勿論、そのような者に多くの人を救うことは出来ない(さらに多くの場合、そのような者は目の前の救いたい人すら救えない)。


愚痴が長くなったが、本書はそのような「冷たい頭」を備えるために重要な視点を提供してくれる良書である。
もう少し説明が解りやすく、日本語の質が高ければ言うことはないのだが・・・。


日本の経済格差―所得と資産から考える (岩波新書)

日本の経済格差―所得と資産から考える (岩波新書)

書名:日本の経済格差―所得と資産から考える
著者:橘木俊詔


・・・ひどい本である。
これほどひどい本であるとは予測していなかった。


本書は「格差」論争の火付けとなった本である。
いわば「格差」論者にとっての原点となるべき書なのだが・・・。


何よりもまず日本語がひどい。


橘木俊詔『日本の経済格差』p177 L2〜L4

もっとむずかしいことは、それぞれの基準をいかに計測するか、という技術的に困難な課題が常につきまとうので、実際にこれらの基準を応用して分配政策において厳密に採用するまでには至っていない

主述の関係が成り立っていない。
主語に対応する述語がない。


京大の教授、と聞くときっと素晴らしい日本語を書くのだろうなぁ、と期待するのは私だけだろうか。
それが、このひどさ。
村上陽一郎が読んだら大いに嘆くだろう(いや、京大のだめっぷりを知ってむしろほくそ笑むのかも知れない)。


そして、後に批判されるように、挙げているデータから「格差」(拡大)は証明できていない。
挙げられているデータは、「金持ちは資産をたくさん持っている」レベルのものでしかなく、特に問題意識を刺激するような衝撃度の高いデータは見受けられない。


そしてサヨク思想(しかも近年珍しい社会主義的左翼)である。
本書は、どちらかというと告発書の類ではなく、啓蒙書の類である。
社会学というよりは倫理学に近い。
その証拠に、「資産分布の偏り」に対して著者がこれを問題視する発言が随所に見られる。
資産が偏っているのは資本主義社会において当たり前のことであり、殊、資産に関しては、それこそ統制経済でも敷かない限り、偏りが大きくなるのは当然の結果ではないか。
本書はこうした資産の偏りを、効率性という経済学の視点ではなく、社会の不安定化という社会学の視点でもなく、「不公平」という倫理学の視点から問題視している。


偏りのないデータ分析は存在しえないが(いわゆる「格差社会」派のデータ分析の問題点を指摘した、大竹文雄の『日本の不平等』がサントリー学芸賞を受賞していることを知ったとき、ああ、そういうことかと思った)、「格差」が最終的には思想の問題であり、本書ではそれをひとまず差し置いてデータを見ることにする、と著者自身が冒頭で述べているのである。
にも拘わらず、堂々と「自分はロールズの立場をとる」とか、「格差は問題だ」と書いている。
分析の書、と銘打っているのに啓蒙の書となっているところが本書の最大の問題である。
まあ、批判本が出るのは(そして見識のある者の間では批判の方が指示されるのは)問題ないな、と思わせるような問題の著作である。


意外にも、後に批判される、高齢化の問題であるとか、世帯形態の変化、といった点に関して、著者は考慮している。
考慮しているにも拘わらず、その要因を無視して、「所得格差が広がっているのはけしからん」「富に偏りがあるのはけしからん」「政府が再分配政策を緩めているのはけしからん」という主張を繰り返しているところに問題がある。


まあ、こういう批判が出来るのも、既に『論争 格差社会』などの批判書を読み始めているからであり(上記大竹文雄の本も批判書の一部)、最初に読んだ本がこれであったならば、そして読んだ時期が6年前ならば、私も少なからず洗脳されていたのだろう。
大局的にものを見ること、そして「冷たい頭」で考えることの大切さを身にしみて再認識させられたという意味では私にとっては本書は有益であった。
さて、『格差社会−何が問題か』では、橘木氏はどのような再反論を見せてくれるのだろうか。


それにしてもこのひどい日本語、どうにかなりませんか?(お前に言われたかねぇわ)