11/11である。
恐らく本文は11/12に書くものと思われる。
疲労を通り越して重疲労の域に到達しつつある。
明日は大変なことになるだろう。


11/12である。
予想に反して今日の体調はそうひどくなかった。
だが、筋肉痛が2日遅れてやってくるような人である。
明日、明後日が厳しいのかも知れない。
・・・・・・。
そんなこと言っていたら毎日が不安で身動きがとれなくなるじゃないかって?
その通り、そのぐらい健康状態に不安を抱えているのである。
まあ、さすがに5年もこうだと慣れてくるものではあるが。
かといって苦痛が減じることはない。


塵も積もれば山となる。
本も積もれば塵をうむ。
そして塵が積もれば山となる。
部屋中本だらけで塵だらけ。
しかしろくに掃除が出来ていない。


4週連続で日曜に用事が入り、そのぶんエントロピーの低減に充てることが出来る時間がほとんどとれなかった。
試験、試験(神戸)、旅(東京)、試合(バド)。
充実した日々を送っているようだが、その分塵と疲れが積もりに積もっている。
来週はまた予定があるから再来週あたりから1日ぐらいは休もう、と思った矢先に「休日出勤」のお達しである。
どうやらエントロピーは年末まで増大し続けることになりそうだ。


日曜が使えないと土曜日の忙しさが倍増する。
少なくとも三方面に買い物に行かなければならない。
しかも自転車で。
本買って本買って食料を買う。
・・・・・・??
何か間違っている気がする。
いや、これでいいのか。
(よかねぇ!)
そう、今月も(まだ2週目なのに)既に予算オーバーなのである。
勿論、書籍代が。
ていうか毎月給料の4分の1近く本に飛んでいるようでは脱サラ(死語)なんて夢のまた夢でっせ(浪速風に)。
ああ、誰かこの人の手癖の悪さを直してあげてください。
(確信犯の癖に)
ああ、「日本の論点」が出てる。
(ってもう腕の中に収まってる!!)


社会学に(しばらく)専念するのはいいけど、「格差」と名のつく本を片端から買い漁っても意味がないだろ。
どうせ読み切れないし。<いいや、読み切る>
まあ、読み切るだろうけど、どうすんの、その付箋だらけの本。
レポート作る暇ないでしょ。<いいや、作る>
いや、無理だって。
ただでさえ実装(仕事)遅れてるんだから。


という感じでエントロピーは増大していくのである。
極度のエントロピーの増大は拡散であり、動物の場合それは死そのものである。
それも本懐と言えば本懐なのだけど。


そういえば、いつもの店に愛用の付箋が補充されていなかった。
今のところ徳島ではここでしか見ていないから、かなり危機的な状況に陥ったということになる。
私は付箋がなければ論文が読めない。
ドッグイヤーは嫌だし(さぶっ)書き込みなんて以ての外。
昔のようにレポートを作り終えた本からちまちまと剥がして再利用する時間も気力もない(単に怠けているだけ)。
意外なところで危機的な状況に陥っているのだが、状況が特殊すぎて誰も助けてはくれない(あたりまえだ。そのくらい自分でなんとかしろ)。
やはりあの時(神戸に行った時)、大量に買い占めておくのだった・・・付箋を・・・ぐふっ・・・。


かくしてまたnullusのエントロピーは増大していくのであった。
(オチはないんかい!)


この国の品質

この国の品質

良書・・・と書きたいところだが、一言文句を。
紛らわしいタイトル付けるな!
てっきり佐野さんが日本人の質についての書き下ろしを書いたのかと思ったではないか。
何?
帯をしっかり読めって?
だいたい帯なんて、毒々しいコマーシャリズムの塊なんだから鼻っから相手にしとらんのじゃ。<まあ、明らかに騙された方が悪い>


と、再録の多さに愚痴は尽きないのだが、本書の中身そのものは勿論、相当読み応えのあるものである。
特に冒頭の講演は、様々な「衝撃の新事実」の暴露に興奮するだけでなく、「ジャーナリズムの有るべき姿」とそれと比較しての現在のジャーナリズムの堕落、また、日本人の質の低下が「読む力」の退化によるものであるなど佐野氏の真骨頂ともいえる濃い内容となっている。


しかし、である。
佐野氏の現代の日本人に対する叱責はまさにその通りであり、宮本常一の偉大さは痛いほど解った。
直観の鋭さと取材の緻密さ、徹底した現場主義には脱帽の一言であり、格差や冤罪に対する怒りは強気を挫き弱気を助ける「ノーブレス・オブリージ」の鏡といっていい。
しかし、である。
佐野氏の過去を美化する発言はやはりノスタルジーではないか。
そしてインターネットを目の敵にする姿勢は「因循姑息」の誹りを免れないのではないか。
このように感じたのも事実である。


特に前者に関して、佐野氏は統計的視点を軽視しすぎているような気がする。
勿論、仮にもジャーナリズムの手本となるような人のこと、独断と偏見で安易に決めつけを行うようなことはしていない。
しかし、肝心なところで自身の印象を数字よりも優先してしまってるように思える。
確かに、(現代人の私から見ても)日本人の質は下がっているように感じるが、あくまでそれは実感であり、本人の主観でしかない。
貧困の調査にも統計の裏付けが必要なように、日本人の質の低下にも統計の裏付けが必要ではないか(かなり難しいとは思うが)。
よくひかれる事実だが、青少年の犯罪は統計的に見れば「増加」も「凶悪化」もしていない。
ただ、ニュース(特に憎きワイドショー的番組、枠)が頻繁に誇張してとりあげるから、そのような気がしているだけである。


これは日本人の質についても言えることであって、自分が受けた印象や周囲の(特に権威ある)人の発言から何となく日本人の質が低下したような気になり、或いは社会全体の雰囲気がそのような状態になると、昔の人が立派に思えてきて今の日本人はここが駄目だ、そこが駄目だと講釈をたれたくなるのはよく解る。
だが不思議なことに、どれだけの人の質がどのくらい低下したのかについてまともな数字が提示されたことは一度もない(これは本書に限った話ではない)。
例えば見知らぬ人に会った時に挨拶する(これが品質の高さを証明するかどうかの判断が先に必要だが)人が、過去比べて今どのくらい減った(増えた)のかを数字で説明するというようなことをしていない。


それを行わずに印象だけで今の日本人を批判しているようでは、ノスタルジーの批判を免れることは出来ないだろう。
その人の中で「過去」は純粋な理想として結晶化しているから、現在の状態がどのように「改善」されても、その理想の姿と比較すれば現在は常に最悪の状態としか映らない。
指摘はとても貴重で、提案はこの上なく美しいのであるが、それは少しも現実の用を満たさない。
なぜならそのような「過去」は(少なくとも統計上有意な数としては)存在しなかったのであるから。


また、数少ない個々の事例を問題と捉え、或いは数少ない希有な例に感動しているだけでは、「全体」がいつまで経っても改善されることはない。
勿論、個々の積み重ねがなければ「全体」の改善はなしえないが、個々の積み重ねの延長に必ずしも「全体」の改善がやってこないところに「社会」というものの複雑さ、煩雑さがある。
個々の事例から発するのは悪いことではないが、最後は必ず数字にしなければ、意味のある提言にはならないのである。
「草の根」主義は、いつまで経っても個々の事例に拘泥し続けるから、どんなに素晴らしい論でも、結局(社会的には)役に立つことはない。
佐野氏の限界はまさにそのようなところにある(勿論これは佐野氏の立っている立場に深く依存していることであるから、全てを佐野氏個人の責に帰するのは間違っている。佐野氏はその立場の中でもかなり「現実的な」提言をする方であり、だから私は自分と立場が違う人の中ではほとんど唯一と言っていいほどこの人のことを深く尊敬し、著書を有り難く拝読している。本批判はより高いレベルを要求してのことであって、例えば前掲の『下流社会』の著者などとはそもそも求めている水準に雲泥の差があるということをここに強調しておく)。