そして物語は消滅の危機を迎える。


9/17である。
冴えない文章を書いているときは気分が落ち込む。
勿論今がその時である。
内容が明るいか暗いかは関係がない。
物語として面白いか面白くないかが問題なのだ。
そしてそれを語る口調が。


午前中まで週で最良の状態だったにも拘わらず、午後から週で最悪の状態に落ち込んだ。
原因は↓こいつ・・・ではあるまい。
たぶん遅めの昼を摂取したことにあるのだろう。


DEATH NOTE (12) (ジャンプ・コミックス)

DEATH NOTE (12) (ジャンプ・コミックス)

とりあえずポリシー通り最期まで読んだ(誤植ではない)。
結論から言えば・・・拍子抜け。


既に死や殺人を考える意味での思考実験としての本書の価値は皆無であると判断している。
正義や悪に関しては最初から主人公の理論、それにもまして行動が破綻している(著者もそのことは承知の上でかいている。最後に冷静に指摘させているが、どちらかと言うとくどい)。
よって、残りの巻に求められるものは物語としての面白さと論理の組み立ての精緻さ、後は多少の驚きがあれば、というところであったが・・・。


あまりにも結末があっけなさ過ぎた(これでは死に神でなくても幕を引くだろう)。
ちりばめていた伏線(それもたいした量にならなかったが)も機能せず、主人公の諦めも早く(だいたいセオリーから言っても表→裏→裏の裏までは来るからその次どう返してくるかに期待するのであるが、裏をひっくり返すのに偶発的要素を使用してしまったため、その次が書けなくなってしまっていた)、結末もおよそこちらの予想通りに収まってしまった。
これではあんまりだろう。


ただ、評価すべき点はある。
それは、道具を増やさなかったという点である。
途中、明かされる形で追加された事項はあるが、基本的には最初に決められた「ルール」の範疇に収まっており、1つの「ワールド」として閉じている。
従って「おい、それはいくらなんでも反則だろう」とあきれてしまうような強引な展開はほとんどない(そんなやつはいねぇ、というようなステレオタイプを前提とした展開はあったが、まあ物語だから許容範囲だろう)。
いうなれば「カ○ハ○ハ」という1つの必殺技だけで最後までストーリーを組み上げたという感じである。


まあ、かけた投資分の価値はあったということで。
足りない分は某ちり紙交換全国チェーン店に払ってもらいましょう。
ポンッ(判を押す音)
Sale


ダレン・シャン1 奇怪なサーカス

ダレン・シャン1 奇怪なサーカス

2回ほど名前を聞いたので手を出してみることに。
(また、時間もないのに余計なものに手を出して・・・)
(よっぽどその人のことが気になるんだ)
はぁ?さて、何の事やら。


ちなみに私は紹介してくれた人に遠慮無く書を評することにしている。
単にこれは私の癖。


で、この本。
・・・・・・。
対象年齢が低すぎる。
従って読みづらい。
しかも、どうがんばってもこの主人公の思考回路について行くことができない。
別に完全無欠なヒーローじゃないといけないということを言っている訳ではない(むしろそれもついて行くのがきつい)。
ただ、「頭のてっぺんから足の先まで」アホな疑似人格の視点で書かれた物語を読み進めていくのは相当疲れるということだ。
ここで言うアホとは、知能指数のことではない。
例は悪いが『アルジャーノンに花束を』の主人公はアホではない。
彼にはすんなり感情移入できる。
・・・・・・。
逆の例を考えていたのだが、なかなか思いつかなかった(上述の作品の主人公は確かにアホなのだがあれは少し性格が違う)。
それほどひどい思考回路なのである。
同情すべき余地が全くない。


加えて、物語としての面白さがない。
意外な展開も鬼気迫る描写も心打つ場面も特にない。
一言でまとめるなら、稚拙。


さんざんな言い様だが、既に6冊も買ってしまったことだし(ヲイ)、まあ我慢できるところまで読んでみる。
この巻は次巻以降の導入として(0点だが)目をつぶることとしよう。


それにしてもあんた、いつもながら偉そうな口聞くね。


9/17追記

東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~

東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~

そういえば、これ読んだの忘れていた。
勿論、あまりにも内容がひどかったからである。


そもそも「親子の愛情もの」に対しての私の閾値は高い。
それは勿論、私が肉親の情なるものに対して不信感を抱いているからであり、いくつかの事情から憎しみ以外の情を抱いたことがないからである。
最近はその憎しみが自分の無能力に対する憤りを自分に向けないための責任転換でしかなかったことに気づき、気づいたからには間違って対象を「憎む」ことも出来ず、ただひたすら自傷に走っているわけであるが。


だからといって私が「肉親の情」に対して完全に想像力を欠いているというわけではない。
フランク・マコート『アンジェラの灰』には感動した。
ラース・フォン・トリアーの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』における「母の子を思う気持ち」は本物であると感じた。
何?両方ともフィクションじゃないかって?
じゃあ、武田鉄矢のエッセイを読めよ。


まあとにかく母が子を思うという構図の作品にしては出来が悪い。
そもそもさっきこれを思い出したのも「アホな主人公」の例を考えていたからである。
この本の主人公こそ、まさに「アホ」の典型ではないか。
再確認するがこれは「頭が悪い」という意味ではない(間違いなく私よりも頭はいいだろう)。
周りのことを考えず、自分勝手なことをして親にさんざん苦労をかけ、その実少しも(親が死ぬような時になっても)反省していない。


そもそも本当に「オカン」のことを大切に思っているのなら、少なくとも自分が生きている間にこのような本は書かないだろう。
大事な物語を大衆消費のためにさらけ出すことほど親不孝なことはないのではないか。
私はこの一点だけがどうしても許せず、怒り心頭のまま最後までこの本と向き合うこととなった(上記の発言と矛盾してるって?私が挙げた作品とは母についての書き方が違うのだよ)。


まあ、一万六千歩(中途半端やな〜)譲って、「ボクはこんなにアホでしたけど(失礼)オカンはこんなにいい人でした」という意図の作品であったとしよう。
そうであるとするならば、読むに値しない作品である。
この発言は全国二千万の母親(←根拠の無い数字)を敵に回すことになるかも知れないが、敢えてする。

母親は好きで自分の子供の面倒を見ている

勿論、扶養義務とかそういったのをさっ引いての話である。
従ってどのように母が自分のためにしてくれることでもそれは第一に「自分のため」にしているのであり、そのことで負い目を感じる必然性は全くなく、嫌なものは断ってもなんら問題はない。
第一、「産んでもらった恩」「ここまで育ててもらった恩」なんてこちらから頼んだものでもないし、価値が絶対化されているから返済の当てもない。
ただひたすらそのことに感謝し、死ぬまで敬えなどというのは「人間は生まれつき原罪を負っていて、お前が生まれるはるか昔にイエス・キリストがその罪を背負って十字架で死んでくれたからお前の罪は許されたのだから無条件でキリストを信じ敬え」というキリスト教のからくりとまったく同じで一つの宗教ではないか。<まあ、さすが「針金ひん曲がり野郎」と呼ばれただけのことはあるな>
(それ、いつの頃のあだ名だよ)<小学生だったか・・・>
(げ。こいつ小学生の頃のあだ名なんて覚えていやがる。執念深いやつだな)


私のぶっ飛んだ思想はどうでもいいとして。
それでも物語として面白いものであれば私は受け入れていただろう(現に受け入れている)。
だが、この作品にはそのような気概が見られない。
多少のアフォリズムめいたものがちりばめられているが、特に心を打つような言葉もない。
あくまで「あるがまま」「等身大」のボクを描こうとして(というよりは無反省にそれをさらけ出して)いる。
「あるがまま」であることはそれこそ現実で生きる上では大事なことであろうが、物語において「あるがまま」というのは最悪な叙述法である。
人間は自分より上に行こうとして、上手くいかなくて、挫折して、そこに物語が生まれるのである。
だから私もこの日記ではかなり無理をして、「等身大」の自分よりやや背伸びした文章を書いているのだ。
そのギャップにこそ「物語」は生じるのであって、ただあったことを書き留めておく備忘録であれば箇条書きのメモで十分だ(現にそういう箇所もある)。


話がとんでもないところにそれたが、最近はやりの「あるがまま」「世界に一つだけのなんちゃら」というものには嫌悪を通り越して憎悪さえ感じる。
あるがままを肯定して「生きる」ことは何も否定するものではないが(現に私も病気を抱えている以上これ以上の向上を望むことは出来ず、自分の嫌いな「自堕落」な状態で「生きる」ことを余儀なくされている。あ、今嫌いって言った。やっばりね)、特別な才能を持つ者、「物語」を紡ぐ者がそういうことを言ったり書いたりしてはならない。
物語世界の危機はまさにここにある。