そのどちらをも拒絶したことで私は世界を拒絶したことになったわけであるが。
そんなことはどうでもいい。


ノルウェイの森 (上) (講談社文庫)

ノルウェイの森 (上) (講談社文庫)

ノルウェイの森 (下) (講談社文庫)

ノルウェイの森 (下) (講談社文庫)

5年ぶりぐらいに読み返してみた(随分と遅くに読んだのだな)。
というのはとあるきっかけで・・・。
(相変わらず秘密の多いやつだな)<まあ、ミステリアスな方が株が上がるからな>
(嫌なやつ)<わかったよ。いやいいんだろ。>
まあ、ある人に「この間言っていた『ノルウェイの森』を読んでいるんだけど、主人公がどうもあなたに似ているように思えて仕方がない」と言われただけなのだ。
(嫌みなやつ)
違うって。
私は「そりゃ、ねぇだろ。」と思ったからこそ読み返したのであって・・・。
(それにしては珍しく人の言動に影響を受けたね)
いやぁ、私は人の言動の影響を強く受ける方ですよ。
なにせA型ですから。
ただし人の話は聞かない。
(サイアク)


まあ、で、会社のお昼休みに歩いて某ちり紙交換の全国チェーン店に行って(素直にB○○K○F○と言わんかい)、その本を決め買いして(なんじゃその日本語は)・・・。
グサッ
(な、なにするんじゃい・・・。グフッ)
うるさい。
外野は黙ってな。


で、ほとんどの部分を歩きながら読んでしまったのだが・・・。
結論。
私は「ワタナベ君」とはちっとも似ていません。
まあ、共通点があるとすれば世界に対して冷めていること、本ばかり読んでいること(トーマス・マンはまだ読んでいない。フィッツジェラルド「グレート・ギャッツビー」は読んだ。あまり良い本とは思わなかったが)、社会になじめないでいること、本気になって誰かを愛することが出来ないこと、自分のことで精一杯で、そのせいで無意識のうちに誰かを傷つけて、そのことを全部自分のせいにしてしまうこと、ぐらいかな(結構似ているじゃん)。
・・・・・・。
軟弱というまとめ方をすれば、確かに「我々」は共通しているのかも知れない。
・・・・・・。
あの人はそう言う意味で似ていると言ったのか?
おい、君、そうなのか?


まあ、どうでもいい話はさておき(いや、その話の続きこそ聞きたい)<君。もう一度刺されたくなかったらすっこんでな>(ひ、ひぃ〜)。
彼の小説がこんなにも性と死に満ちたものであったことを忘れていた。
まあ、人間の関心の8割はそれだから私小説がそうなることは一つの必然なのだろうけど(日本の小説の特徴でもある)。
しかし、こんなもの毎日読んでいたら頭おかしくなっちゃわないか?
あ、そうか。
大半の人は「たまに」しか読まないのか。
そうか、それで私の頭はおかしいのか。
・・・・・・。
今日はいつもにもましておかしいぞ。


物語としては◎。
さすが名作というところだが、5年前に読んだ時ほどのインパクトはない。
「春樹節」は健在で(というよりもこれは最初期の作品だからむしろ既に「春木節」は完成されていて、という表現の方が適切か)、5年前に付箋を貼ったところと全く同じ箇所(ピンポイントで一箇所)に付箋を貼るなど私の中の評価としては相変わらず高い。
近年流行の「やまいもの」(せかちゅーとか世界の中心でとか愛をさけぶとかいろいろ)の親玉(絶対ハルキはこの表現をいやがるな)として堂々とした存在感を与えるが、やはりどことなく訴えかけてくるものが弱い。
たぶん私がハルキの世界観をある程度理解してしまったことで新鮮味を感じなくなっていること(単に感動の閾値がものすごく跳ね上がってしまっただけとも言える)と「僕」の存在感があまりにもなさ過ぎて「僕」と自分との間の抵抗のようなものが薄く感じることが原因だと思われる。
なんかさ、ドラクエの主人公みたいなんだよね、この小説の「僕」って。
主人公はあなたです、のような感じで。
私小説はたいがいそうなんだろうけど、その中でも一段と「僕」の存在感薄いぜ、この小説。
周りの人間が存在感ありすぎるからかも知れないが。
あるいはハルキ自身の視点で書いたから「僕」について客観的に書くことが出来なかったとか。


まあ、どうでもいいや。
それにしても。
以前読んだときもそうだったが、私はむしろ「緑」の方に魅力を感じる(そして珍しいことにこれは多数派の意見、だったはず)。
自分が病的で死に取り憑かれているからなのかもしれない。
って、俺はなにを喋っているのだ?


【中断】


9/14である。


今読み返してみても何書いているんだか意味がわからない。
まあ、昨日の私は今日の私と同一性を持つらしいから特に消さずに私の書いたものとして残しておくこととしよう。


昨日書きたかったのは本の感想ではなくて、私が「壊れた」話。
この「壊れた」もMy wordで、身体の状態が制御不可能な状態になったことを示している。
私の身体は月に1〜2度「壊れる」ことがあるらしい、というのは経験則。
といっても、表面的には代謝がものすごく早くなるくらいで「病気」とは診断してもらえないので医者にかかるのは無意味である、というのは諦念。
まあ、「壊れた」時は家でじっとしているのが一番なのであるが、仕事だけにそうもいかない。
昔かいた詩(?)にはこうあった。

嵐がきた時は
ぎゅっと目を閉じ 両手を耳に当てて しゃがみこみ
それが通り過ぎるまでじっと耐えるしかない
そのとき一番 大事なことは
何もできずにしゃがみこんだ自分を
決して嫌いにならないことだ


現在の「病気」が発現した頃のものであるが、スタンスとしては今も変わっていない。
一切の感情を封じ、反応を極限まで鈍くし、水分も含めた一切のものを摂取しない。
そうやって「じっとしゃがみこんで」いれば、潮がひいていくようにやがて状態は安定し、活動が出来る状態になる。
そのあいだは何も考えてはならない。
理不尽な体調不良に憤りを感じてはならない。
集中力や注意力をわざと落としている自分にもどかしさを感じてはならない。
愚かな受け答えをする自分の愚鈍さを笑ってはならない。
簡単な問題すら解けなくなる自分の無能さを嘆いてはならない。
ただじっと、時が過ぎるのを待っていなければならない。


最近は自分の体調を"solid state","liquid state"と呼んでいる(やめてくれ、英語は苦手なんだ)。
言っておくが「スネーク」とは関係がないぞ(このネタ解る人いるかな)。
読んで字のごとくであるが(ただ一つ違うのは、"solid state"が体調の「良い」状態とは限らないことだ)、この定義で言えば今週の前半はずっと"liquid state"だった。
その状態の時は身体を気遣うあらゆる努力が無駄であるから、ただ「じっと」時が過ぎるのを待つしかない。
強いて言えば自分の好きなことをさせるしかないのだが、今私が一番落ち着くのは歩きながら音楽を聴きつつ本を読むことだけなので、それはやらしておいた。
上手くいく場合(水曜日)と上手くいかない場合(木曜日)とがあったが、大切なのは駄目な時の自分を責めないことである。
その態度は多くのものを手に入れる可能性を私から奪っていくことになるだろうが、既に私は欲しいものは手に入れたので今さら何も欲しくはない。
ただ「じっと」、時が過ぎていくのを待つだけである。


9/16追記
私がよく他人の誘いを断ったり、車に乗るのを嫌ったり、単独行動を取りたがったりするのも(最後だけは生来の悪癖であるが)ほとんどこのことが原因である。
いつ"liquid state"となり、パニックを引き起こすかがまったく解らない。
予兆もないから事前に予測することも出来ない。
体調がおかしくなったら素直に人に頼ればいいのだろうがそれが出来ない。
むしろ一人でいれば身体の発する嘘の信号に対して落ち着いて対処できる場合も他人がそこにいると焦りからかよりパニックの度合いを増す。


そもそもそういう見方が根本から間違っており、おそらくそれは致命的なものであると予測される。
しかし繰り返しになるが、既に私は諦めており、この件に関して態度を改めることはないと思われる。
それが、私が執拗に自らの破滅を予言することの主因となっていることは容易に予測できることである。