DEATH NOTE (5) (ジャンプ・コミックス)

DEATH NOTE (5) (ジャンプ・コミックス)

書名:DEATH NOTE (5)
著者:大場つぐみ, 小畑健


だいぶ前に「デスノートの〜がどうの」と言われた記憶がある。
雰囲気がデスノートっぽいのか、この日記がデスノートっぽいのか(それは一理あるな、うん)、はたまた私自身がその登場人物の誰かに似ているというのか(よくいろんなものに似ていると言われるが、明るいキャラが該当したことはない。まあ、本人も納得済みのことであるが)詳細は忘れた。
格好から死に神と呼ばれることもあったような気がするが(悪い気はしない。・・・ヲイ)、まさか似ているってこの羽の生えたゴリラのことだったのか?
滅多なことでは衝撃を表に出さない(受けないのではない、決して)私でもこれはさすがにショックだぞ。


もとい。
ほんの少しだけ興味はあったが、特に拾って読むほどでもないと思っていた(死に関しては自分の方が哲学しているという自負があったのだろう)が、ふとした気まぐれから(たぶん人によってはああ、あれかと解ると思う。実はあの時注意力の半分はそっちに持って行かれていたのである)読んでみようかと思った。
で、某ちり紙交換の全国チェーンで(今の社に受かっていなかったらその店の店長になっていたかも知れない。エントリーシートだけは書いた)5冊ほど購入した。
1巻を数十頁ほど立ち読みして決めたことである。
相変わらず本を買うかどうかの決断だけは早い。


購入の決定因は、第一には、予想していたよりも仕掛けが単純で少ないということ。
物語として成り立たせるためにはもっと多くの制約が必要だと思っていたが、なかなか上手い仕掛けを考えたなと感心した。
まあ、第一関門はこれでパス。
第二には、のっけから思考実験の体を見せていたこと。
馬鹿な主人公があほらしい思想を展開しているわけであるが、最初からこれだけの前提が掲げられているならばそれを突き詰めていくと(やりとりからあくまで「論理」は放棄しないという姿勢が見えるのも加点の対象)確実に論理的に行き詰まるのが見えている。
そこから先をどのように展開するかという期待が持てそうということで第二関門をパスしたというわけである。
まあ、物語としてはいろいろ無理は見えているが思考実験ならば一読するくらいの価値はあるか・・・。


と、いうことで5巻まで読んでみたのであるが、現時点では失望の色が隠せないでいる。
というのもただの探偵ものと堕しているからである。
しかも、非科学的要素が混入されているだけたちが悪い。
特に5巻はかなり「中だるみ」の様相を呈している。
まあ、これが連載だったとして、書きながら考えていたというのならば、そのような作品にはよく見られる現象であるから目をつぶることができなくはない。
だが、問題はそういうことではなくて、当初期待していた「死」そのものについての言説が全くなくなっているということである。
それではただの「死」を題材にした漫画(まあ、そのまんまだな、East)でしかなくなる。
そうであるならば死を玩具として遊んでいる昨今の少年犯罪者となんら変りがない。
私は間違えてもモラリストではないので(モラリストは死を賛美するようなことはしない)そんなことはどうでもいいのだが、はっきりいってつまらないよ。
まあ、読みかけのものは放棄しない主義なので最後まで読むけどさ。


こういう話題になると絶対に誰かが発する陳腐な質問。
デスノートを手に入れたら誰を殺しますか?」
決まっている。
まず何よりも先に自分を殺す。
後のことはしらん。


だいたい「死は安息だ」とか「死ぬことが幸せなんだ」とか言っているような似非宗教家や指導者はまずてめえが死ぬべきではないか。
理由はいくらでもあるが(例えばそいつの言っている「安息」や「幸せ」が欲しくない人はいくらでもいる、死が安息であることの証明は言っている本人が死んでそれが「安息」であると受け止められることでしか出来ずそれにしても証明されたことはその人にとって死が安息だということだけで、他の人にそれが当てはまることは証明できていない、など。だいたい「死人に口なし」なんだよ)、だいたい迷惑だよね、自分の考えを人に押しつけるのは。
死にたければ独りで死ねば。
寂しいからって他人を巻き込むなよ。
生きるってのは闘いなんだから、他人を害するようなことをすれば排除されるよ、当たり前(まあ、他人を害しなくても理不尽に排除されることも多々あるさ。ラース・フォン・トリアーを観ろよ)。