阿波DANCE

阿波DANCE

踊る阿呆に見る阿呆、同じアホなら踊らな損々


よしこの at Our Dance

流行の物語は一通りチェックする。
以前からの習慣である。
だからせかちゅーもいまあいもふゆそなも皆読んだ。
どれもつまらなかったけど(ふゆそなは2巻までは面白かった)。


あわだんす、なんて名前からして馬鹿そうだし、ケータイ小説はひどいとのもっぱらの評判だ。
というところからこの本に対する期待はまあ最低水準であった。
だから、と言うわけではないが・・・。
意外にこの物語はイケル


あ、いかん。
慣れない言葉を使ってみたら急に眩暈が・・・。


冗談はさておき。
以前にも書いたかも知れないが、私の出版物に対する評価基準はただ一つ、「物語」だけである。
確かに、この本は「小説」としては失格である(人間も情景も舞台も何一つ満足に描けていない)。
あっと言わせるような仕掛けも緻密な構成もない。
が、そこにこめられた物語は秀逸である。


この物語の趣旨は「阿呆になること」、ただそれだけである。
私から言わせれば、この本の登場人物は登場時点で既に十分な「あほ」なのだが、「阿呆」とはそういう意味ではない(従ってどんなにあほな私もこの意味では「阿呆」ではない)。
厳密に定義すれば、「自分」がなくなっている状態、「見る自分」=客観の存在しない状態、これがすなわち「阿呆になる」ということである。


人間は動物である(これを論破出来る者はいまい)。
しかるに動物というものは(少なくとも私が見る限りでは)目的合理性の塊である。
その目的とは快の追究である。
人間も動物であるのだから、その目的は快の追究に他ならない。
しかし、ここで問題が生じる。
本来、より上位の快を手に入れるための手段であった思考が快を手に入れることに待ったをかけるのである。
それは「生き」てより上位の快を手に入れるためのものであったが、次第に本来の存在意義を離れて快を阻止するようになった。
そして思考はさらに発生し、奇形化し、身体とは必ずしも同じことを求めようとはしなくなっていった。
そういう意味で、全ての人間は生まれつき「分裂症(おおっと、最近は統合失調と言わなければならないようだ)」の状態にあると言える。


ここまでが前提(相変わらず前置きの長いこと)。
以上の状態にある「人間」であるが、その本質が動物であることは変りがない。
であるとすれば、やはりその目的は快である。
従ってこの前提(そして「社会」という前提)の元では、「ルール」の中で自分にとって快となることを手に入れることが、「賢い」生き方となる。
それに失敗した者が俗に「犯罪者」と呼ばれるのである。


「祭」というハレの場で「阿呆」になることは、そういう意味で最も賢い「人間」の生き方である。
勿論、日常の生活においても「阿呆」であればあるほど良い(但し、「阿呆」の度が過ぎると不適応となり社会から排除されて快から遠ざかる。このバランスが難しい)。
本書は「阿呆」とはどういうものか、「阿呆」になるためにはどうすればよいかについて「リアリティ」ある物語を展開している(これは偶然の産物で、著者の意図と違うかも知れない。そういう可能性もあるから別にこの著者をマークしようとは思わない)。
そういう意味で、「物語として秀逸」という評価を下したのである。


それにしても、踊る阿呆に見る阿呆とはよく言ったものである。
先人の知恵を感じる。
この世界には「阿呆」しかいない。
多くの「わきまえた」人が自分のつまらない見栄のために「見る阿呆」にとどまっている。
確かに、損得で考えれば「踊る阿呆」になった方がよい。
だが、私は敢えて「見る阿呆」でいようと思う。
少なくとも今は。


まあ、少なくとも1人でいるときは私も十分「踊る阿呆」なのだけど。
今日はどうしても壁当てがしたくて、グローブとボールを持って家を飛び出した。


思う所があり、行ってみたのだが、なにやら草野球の試合をしているようでそこでは出来なかった。
最も、適切な壁も見つからなかったのでいずれにしてもそこでは出来なかったのだが。


もう一つ、公園を見て回ったが、適切な場所が無かった。
城壁に当てれば出来なくもなさそうであったが、「歴史的な遺産になにするんじゃ」と怒られそうな気がしたし、城壁だと跳ね返りが不規則になりそうだったから、やめた。


意外に壁当てが出来る場所は見つからないものである。
諦めて欲求不満のまま帰ることになりそうだったとき、ある場所を見つけた。
道路沿いにある公園で、誰もいない
↑この点が重要で、「踊る阿呆」になるためには少なくとも私は他人の存在があってはならないのである。


が、壁が・・・低い。
目の前は道路だから歩行者や自転車、車に当たる危険性がある。
しかも壁が狭い。
ベンチの後ろの壁がかろうじて使えそうな状態である。
さらに、後ろがだ。
後ろにそらしたら一気に川ポチャ(変な用語)である。


という緊張感溢れる状況の中で、なんとこの人はボールを投げ出した。
まさに「踊る阿呆」である。


しかも30分ほどでばてた。
ろくに栄養摂取していないのも不味かったが、何よりも暑い
水分補給も行えてなかったから危うく熱射病で倒れるところであった。
壁当てで熱射病で倒れたら、恥ずかしすぎてそれだけで悶死してしまう。
しかも一人だから発見される前に望み通り死んでしまうかも知れない。

近づいてくる
至福の時は
痛みを伴いながら
足音をたてる


夏の幻  by GARNET CROW

GARNET CROW(の作詞者)は私と同じ世界を見ているような気がする。
以前にはあまり歌詞は気にならないと書いたが、それはあまりにも私の世界理解とマッチしているからかも知れない。


まあ、どうにか持ち直して、そろそろやめて帰るか、と思っていたとき・・・。
ポチャ
はい、見事に後ろにそらしたのであります。


それにしても。
この暑いのに野球なんてようやるわ。


新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論〈3〉

新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論〈3〉

序盤はひたすら親米保守叩き。
論の趣旨は解るのだが、だから何?というのが正直な感想。
最近この人の考えとの乖離点を意識するようになった。
確かに「純粋まっすぐ君」から救い出してくれたのはこの人であるが、だからといってこの人の「守りたいもの」に共感することは出来ない。


死や戦う(抵抗する)ことに対する畏敬はそのまま自分のコンプレックスであることが最近解るようになってきた(これは前に「わしズム」批判で書いた)。
また、「伝統」を守ることは人間の性質を考えれば不可能なことであり、守ってどうするのだという点で論理的に行き詰まり(後はそれこそこの人の言う「情」の問題であるから守りたい人が守ればいいということになる)、そもそも「伝統」って何よ(少なくともこの人の想像している「伝統」なるものは存在しない)という疑問が湧き上がってくる。


欧米の歴史が侵略と殺戮の歴史であることは確かだが、同じ人間である以上日本人が特に優れて善良である訳ではない。
相対化によって言えることは「人は皆同じように『残虐』で臆病だ」ということだけで、欧米人に比べて日本人は優れていたということはこの見方からは間違いなく導き出すことが出来ない。


この人の目的は左に偏りすぎていた日本の戦後民主主義をより戻すことであった。
そのための右よりな発言は意図したものであった。
もっとも今も実は確信犯的に仕掛けているという可能性があり(良心的に見るならそう)、単に私が真ん中に立ってものを見ることが出来るようになったからこの人の意見の行きすぎたところに疑問を感じるようになっただけということなのかもしれない。
だが、過去に行ったことを持ち出して「アメリカこそ悪の帝国だ」と言ってみたところで何も変らない上、この人の目的も達成されることはない。


過去は反省の材料としては適切であるが、新しい物語を創出するためにはあまり参考にならない。
仮にこの人の言うとおりDNAレベルで「農耕民族」と「狩猟民族」の差異が存在するのであるならば、どのような物語も無意味である(歴史はえんえんと繰り返される)。
もしそうでないとして、新しい物語を創出するためには過去のことは全て忘れてしまった方が実はよい。
そうは言うものの、相手が過去の材料を持ち出して我々を攻撃するものだから、というこの人の指摘には一理あって、残虐性の指摘には残虐性の証拠をもって応戦すればよいが、その戦いに勝つことには何の意味もない。
相手を黙らせることが出来ればそれでいいのであって、その先の「名誉回復」にこだわると外交はいつまで経っても進展しない。


生活が思想を踏みにじるのは何も共産主義に限ったことではない。
この人の主張する「伝統」に関してもそうである。
生は無意味で醜い。
死には意味があり(しかし残念なことに当事者にとっては何の意味も持たない。死んでしまうからである)美しい。
だから必然的に生きることは醜さを選ぶことである。
このことはどうしようもないのだから、美しくありたいと思ったら死ぬしかない。
死んでしまえば自分の死が美化されようが貶められようが関係なくなる。


まあ、さんざん書いたが、このような言説は歌舞伎者のこの人にしか出来ないことであり(櫻井よしこではまだまだ生ぬるい)、そういう意味ではもう少しがんばってもらいたいものである。


願わくば、もう少し上品であればよいのだが・・・。


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