前に宣言した通り、私は現在思想をより高めるための思索を敢行中である。
専門の経済や、ゼミの語学・歴史の勉強はどうしたの、なんて愚問だからな。
まあ、どうせ前期が始まればこの不勉強を嘆くのは目に見えているが。
ともかく。
ぐだぐだと書くと先生に失礼だ。


ショーペンハウアーペシミストではない。
少なくとも「厭世主義」という意味でのペシミストにはあたらない。
それがかの本(下記参照)の主張だった。
私もそれに納得した。
実際に著作を読みながら検証するが、そうすると、ショーペンハウアーは私の論敵ではないことになる。
少なくとも彼の「意志と表象」という世界観は正しい。
「生の否定」は論理の問題ではなく倫理的な問題だという点も納得できる。
だが、「意志の否定」にいたる道について、インド哲学の「悟り」を持ち出して来た時点で、これはいけないと思った。
私にとって「神」と「社会主義」と「真理」「悟り」は同類である。
それらは全てニーチェによって「死亡」を宣告されたものである。
一切の価値の否定。
それがニヒリズムである。
だが、私はニーチェも完璧ではないと思う。
ニーチェは全ての価値を否定して運命を受け入れることを主張したが、その段階で「生」という新しい価値を作り出してしまった。


私はそれをも克服するべきだと考えている。
では、「生の否定」となり、ショーペンハウアーの言う「ペシミズム」となるではないか?
最初はそう思った。
だが、違う。
私はニーチェの言う「超人」を完成させたいだけだ。
そのために「ツアラトゥストア」を否定しなければならない。
ニーチェの肯定した「生」「大地」的なものを否定する。
それでかつ絶望せずに生きる。
まだだ。
まだ、何かがおかしい。


ともかく、ショーペンハウアーを研究することで、より自分の思想が磨かれることが判明した。
我が師ショーペンハウアー
ニーチェ、ジイド、トルストイ
そしてトーマス・マンワーグナー