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私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

書名:私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)
著者:平野啓一郎


■評価:良
  情報:△ 新規性:◎ 構成:○ 日本語:○ 実用性:○
  難易度:やや難 費用対効果:○ タイトルと内容の一致:◎
  お勧め出来る人・用途 :生き方(特に対人関係)に行き詰まりを感じている人・どのように生きていけるか模索する
  お勧めできない人・用途:現在の自分に満足している人・自己啓発


■所感
 まず感じたのは、「ああ、平野氏は(明治期以降の)純文学作家の『問い』を自分の『問い』として持ち続けている方なのだ、正当な純文学の流れを受け継いでいる方なのだ、なるほど、芥川賞作家だ」ということだ。
 (明治期以降の)純文学作家の「問い」とは、よく解説されるように「人は如何にして生きられるか」という、とてもシンプルなようでいて、それでいて、何人もの純文学作家が挑んでは失敗し、己が身を滅ぼすまでに至った強烈な「問い」なのである。


 純文学の作品では、一人称で語られる主人公が、「生」に悩み、苦しんだ挙げ句に、行き詰まって破滅に至る。
 思うに純文学の作家は、その作品の人物を身代わりとして生き延びているのではないか。
 つまり、Aというパターンを突き進んでいった結果、主人公aは行き詰まって自らの命を絶ち、Bというパターンを突き進んでいった結果、主人公bはやはり立ちゆかなくなって破滅し……というように文字通り試行錯誤を「して」いるのである。
 「して」いるのであり、「させて」いるのではないというところがポイントである。
 「させて」いるだけで良いのであれば、小説を「書く」必要はない。自らがそのようなことを「し」なければならないというように追い詰められているから、小説家は小説を「書かざるを得ない」のである。


 しかし(少なくとも浅学な私の知る範囲では)、この「問い」に捉えられて本当に自らの身を滅ぼしてしまった(あらゆる可能性に行き詰まってしまった)作家は数多く存在するものの、この「問い」に対して有効な「解」を提示出来た作家はこれまでいない。
(村上春樹の主人公は死なないが、かといって「問い」に対して答えを見つけてくるわけではない。彼の場合はむしろそれを放棄させることで、主人公(=自分)を生き延びさせているように思う)


 本書の著者は、この「問い」に対して真っ向から取り組み、それに1つの解を提示している(出来ている!)という点で、これまでの純文学がなしえなかった、この「問い」に答えるということに挑戦している。
 この点だけでも、本書と本書に於ける著者の提案は、優れた価値を我々に提示していると考える。


 勿論、これは1つの提「案」であって、正「解」ではない。
 それが本当に明治以来の純文学が抱えてきた大テーマを(部分的にせよ)解決することが出来るのか、それは「実証」を待たなければ何とも言えない。
 彼なりの1つの「実証」の結果が、『ドーン』という小説に現れている。彼の試みが成功しているか否かは、是非この小説を読んで確認してみて欲しい。


 この問題を抱えていない(つまり純文学の「問い」を必要としていない)人には、この提案の価値はそんなに大きくないだろう。
 だが、純文学の「問い」に少しでも共感する部分があるのであれば、本書が提示する1つの提案を素直に受け入れて実践してみてはいかがだろうか。
 少なくとも私には、著者の提案は試行するに値する価値がある提案であると思われる。



■読了日
2012/10/29