なぜあの人ではなく私が生きているのか

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 中 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 中 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

書名:この世界の片隅に 上中下 (アクションコミックス)
作者:こうの史代


■評価:秀
  物語:◎ 情報:○ 斬新さ:◎ 意外性:○ 含意の深さ:◎ ムーブメント:◎ 構成:○ 日本語:○
  難易度:やや難 費用対効果:◎ タイトル:○
  お勧め出来る人 :何故あの人でなくて自分が今ここに生きているのか真剣に考えたい人
  お勧めできない人:生きる気力を失っている人、疲れている人


■所感
 始めに断っておくが、本書を読むのにはかなりの体力と精神力を要する。
 相当消耗するので覚悟して取り組むことをお勧めする。
 

 作者も相当消耗したのではないかな。
 鬼気迫るものを感じた。
 表現をする人は、表現をせざるを得ない人(例えば小説家は小説を書かざるをえない人)である、というのが私の持論であるが、作者はこれを描かざるをえない何かに突き動かされたのだろう。
 命、賭けているな。


 作品としては全く異なるが、『エヴァンゲリオン』を読んだ時と同じぐらいの消耗だった。
 最初は「突き刺さる」ような感じだったが、次第にそれが「抉られる」ような感じに変わっていく...。
 「トウジ」のエピソードを延々と読んでいる感覚、と言えば解る人には解るかもしれない。


 作品の舞台は第二次世界大戦期の広島。
 物語は主人公の少女の幼年時代のエピソードから始まる...。
 と、最初の三話ほどは昭和初期のほのぼのとしたエピソードから始まるが(そしてしばらくはそのような話が続き、主人公が徐々に成長していく...のかと思いきや)、そこから先は話が急展開する。
 嫁入り〜新婚の話...さえも、あくまで物語の準備でしかなく、思っていたよりも話はずんずんと先に進んでいく。
 ただし、ここまでの過程が粗いとか中身がない、ということはない。
 ここまでの話だけでも十分に読ませるものがある(作者の力量を感じる)。
 ただ、この先に用意されている物語のすさまじさに比べれば、ここまではあくまで「準備」の部分に過ぎないのだ。


 この先の物語については語るまい。
 是非自分の目で確かめて欲しい。

  • なぜあの人ではなく自分が生きているのか
  • なぜあの人は死んでしまったのか
  • なぜあの人は私に冷たくするのか
  • なぜあの人は私にやさしくしてくれるのか
  • そもそも自分は生きる価値があるのか
  • なんで私は生きているのか

 答のない問いかけで頭の中が埋め尽くされて飽和状態になってしまうかも知れない。
 しかし、目を背けてはならない。
 生きるとはそういうことなのだから。
 全てを背負って生きていく。
 その覚悟が問われている。


 ちなみに本書は「戦争」そのものに対しては中立的な立場をとっている。
 まるでゲルマン民族のそれのように、外から訪れる猛威に対して、本書の作者の立場は淡々としている。
 要は「受け入れる」か「拒絶」するか、だけの問題なのだ。


 しかし、本書を読み終えた私はまた1つ、私の信念を確実なものにした。
 戦争を止められるのは、やはり1人1人の人間の「死」、だけだ、と。
 戦争を止められるのは抽象的な理念でも、「歴史」という名の無機質な抜け殻でも、死者の数でもない。
 個々の人間の死、個々の人間の物語、それらの人々の物語の共有。
 要は、個々の人々が立ち上がり、自ら血を流すことのみなのである。
 (残念ながらこの国はそれを経験しないままここまできてしまった。それがこの国の「戦争論」「平和論」の貧弱さの根本的な原因である。要はこの国の人々はまだ、「自ら血を流す」ことの意味が解っていないのである)


 本来人が持っているチカラ、純粋な思い。
 しかし、それを容赦なく叩き潰す暴威、そして喪失...。
 良き者は逝き、自分だけが残される。

何故あの人ではなく私が生きているのか
何故私は生きているのか

 時には眠れぬ夜を過ごすことも必要だろう。
 いなくなってしまった人たちのためにも。