私は自由である

思うに、私が無茶をするのは、サルトルの自由論を実践しようとしているからではないか。
つまり

人はどのような状況に置かれていおうと、何が何でも自由であり、全ての行為の責任はその人に帰する。

という。
(こう表してしまうと、陳腐に見えてしまうのが、何とも残念ではある。


私は「次の」機会なんてないと思っているし、「あす」生きている保証などどこにもないと思っている。
だから、「いま・ここで」出来る可能性が1%でもあるのならば、それを実行しようと試みる。
ただし、仕事以外の場面で。
仕事は仕事だから、責任が伴わない間は、そう思い詰める必要はない。


そう。
私が無茶な活動をするのは、
時間や空間、そしてこの肉体から自由であることを証明したいからではないか。


言い訳や愚痴をこぼすような人間にだけはならない。
そのためには後悔の芽を紡ぎ取っておく必要がある。
だから、私は、動く


たとえ力尽き斃れようとも。
私は後悔しない。
どうせ斃れるなら、職場以外の場所で(孤独なんちゃらなんて良いんじゃないかな)、斃れたい。
間違えても労災などとは認定されたくない。
そんなにリソースを仕事には割いていない。
時間だけは大量に投入しているけれども、ね。
自分で自分の首締めているだけだから、それは自業自得でしかない。