全ての人が全ての人を馬鹿にしない社会


私は人が人を「馬鹿にする」ことは論理的に不可能であると考える。
全ての人は、いかなる人をも「馬鹿にする」ことは出来ない。
なぜならば、いかなる人も、ある人に対して「全ての面」において「優れている」ことはないからである。
これは2つの要素に分解できる。


まず1つは「全ての面において」という要素である。
人を評価する項目は、一般に共有されているだけでも優に5桁を超える。
仮に5桁の評価項目があるとして、その全ての項目に於いて、自分の方がその人よりも上回っていると言い切れる人が1人でもいるだろうか。
いくら「自信過剰な」人でも、自信を持って「いる」と言い切れまい。
仮に、それでも私はAよりもありとあらゆる面で勝っている自信がある、と言い切る人がいたとしよう。
実は、この項目は理論上無限に作り出すことができる。
さて、果たして、無限に存在する評価の項目に於いてその人に勝っていると言い切れる人がいるだろうか。
もしいたとすれば、次の要素についての論考を行っていただきたい。


もう1つの要素、それは、「優れている」という評価そのものについてである。
この「優れている」という判断は、人間の主観によってなされる。
仮にこの国の人間を全て集めてきてあなたとAのいずれが「ある点」において「優れているか」を評価させたとした場合、その全ての人に「あなたが優れている」と言わせるだけの自信があなたにはあるだろうか。
(勿論、世界にまで幅を広げた場合、この評価は更に分散する。これだけを考えても、「優れている」がいかに多くの前提を元にした「弱い」根拠の元になされている評価であるかが理解できるだろう)
いや、それは屁理屈だ、評価の中には「数字」できちんと優劣をつけられるものがあるし、「主観的な」評価でさえ圧倒的な多数が私のことを「優れている」とした場合、やはり私の方が優れていると言えるのではないか。
確かに、この反論は正しい。
しかし、次の2点において、この反論は自らの首を絞める反論であることが立証できる。
1点は、数字で優劣をつけられる「ものがある」という表現である。
すなわちこの反論は自らの優位性を「数字で優劣をつけられるもの」に限定している。
更に、「圧倒的な多数が」という表現に於いては、「少数の人はAを優れていると評価するかもしれない」という事実を認めている。
この時点で、あなたがAに対して「完全に」「優れている」ということはないということが明らかになった。


もう一枚上手で、どうしようもない自信家が、「いや、私は自分が有意義であると認めた評価項目において、自分が公正だと認めた人間の評価しかみとめないから、その中で『全ての面においてある人よりも優れている』と言い切れる。だから私にはその人を馬鹿にするだけの正当な理由がある」と言ったとする。
だが、そう言い切ったとしても(そして不思議なことにそう言い切ってもその人に対する他の人の評価が下がらなかったとしても)その人が、人を馬鹿にする根拠が「限定的」であることは論破できない。


人はある人に対して「全ての面において」「優れている」ということはない。
従って、人はある人に対してある点についてある評価軸に基づいてその人よりも優れているという根拠に基づいて、その人を「馬鹿にする」ことはできるが、それ以上のことは出来ないはずである。


そんなことは誰でも「頭では」解っているはずである。
(解っていない人もたくさんいるだろうが)
それでも人は誰かを馬鹿にして生きている。
それは1種のカタルシスであり、セルフエスティームを保つための無意識の行為であり、時に仲間の結束を保つためのツールである。
だが、私はそれを根絶したい。
なぜなら、それは理にかなっていないからである。
上述したように、ある人を「馬鹿にする」という行為は、理論上不可能なはずであり、それを敢行することは「不当」なことである。
そして何よりも、自分のことを棚に上げて人を馬鹿にするという行動そのものが、人間として醜い行為であるとは思わないか。