覚悟はしていたが、やはり体に直接ダメージが来るとやる気もなくなる。
いつもの薬でもさすがにこの不良は押さえられないようだ。<だから、休めよ>


それでも、いつものように淡々と試合をこなしていく・・・。
今日は調子が悪かったが、調子が悪いときは調子が悪い時なりの打ち方が解ってきたので、無難にラリーをこなせている。


・・・・・・。
・・・・・・。
なんか、ひっかかる。
どうも、自分と試合で組んでいるダブルスのパートナーから、「つまらない」オーラを感じる。
態度に表れているわけではないし、もしかするとご本人もお気づきではないかもしれないが、なんか、私は、感じる。
こういう時のこういう感じ(自分は疎まれている、自分は嫌われている、といった負の印象)は、精神的にまいっているときの思い込みであることが大半なのだが、私はこれを看過できない。
(出来るならこんな神経質な人間になっていない)


バド中は夢中だった(というより今日は始終ぼーーっとしていた)ので、まとまった論考はバドが終わった後帰りの自転車でのことである。


私は些か出しゃばりすぎているのではないだろうか。
私は、プロセスにはまったく価値を認めず、結果だけを評価の対象とする(自分に関しては。他人に関してはまた別)。
だから、「勝てるはずだった」試合や、「勝てるかもしれなかった」試合というのは私にとって存在しない(勿論、分析の結果としてはありうるが、だからといって敗北の事実が薄まるわけではない)。
従って、私は私の思想信条(放擲の精神)とは裏腹に、常に勝ちにこだわる。
特にそれが「勝てる」相手との戦いだった場合。
後悔は最低最悪な感情だ。


で。
「勝つ」ために、私は他人の守備範囲を大胆に侵犯して返球をする癖がついてしまった。
これは「勝つ」という目的のためには正しい行動なのかもしれない。
(現に、私はその場に於いて高い勝率を維持している)
だが、誰もがバドミントンを「勝つ」ために行っている訳ではない。
(あんた自身がフリーダムで自分の目的を「皆がバドミントンを楽しめる場を提供する」と言っているじゃないか)
「勝つ」ために私がしゃしゃり出でしまっているのは、結果としてラリーを制すことが多いので咎められることはないが、実はパートナーに不快感を与えているのではないか。
(ちなみに私個人は、自分より実力が上の人とダブルスを組む場合は、出来るだけその人の邪魔をしないように心がける。だが、これはあくまで私個人の場合の話である)


せっかくバドミントンを楽しもうとしているのに、シャトルに触れる機会があまりないまま試合が終わってしまったのであれば、それはつまらないだろう。
「フリーダム」では無意識に出来ている配慮(というと偉そうだ。所作とでも言っておこうか)が、アウェーでは出来ていない・・・。


特に誰の意見を聞いた訳ではないが、以後はあまり他の人の取るべき球に手を出さないようにしようと決意した。
大会など「勝つ」ことを目的とした場合や、明らかなハンディキャップ戦は別として、そのほかの場面では、「勝ち」にこだわらない。
私は、敗者にならなければならないのだ。
負けるべき時には。


降り注ぐ雨の粒が、私のこの決意を肯定しているかのようであった。