東京レポート4-6

最終日は、毎度おなじみ移動のみの緩い予定である。
14:00発の飛行機に乗るために空港に向かうとなれば、よほど目的がしっかりした寄り道以外はリスクが大きすぎる。
特に書店の立ち入りは・・・。
(ようやく学習してきたか)


しかし、ホテルのチェックアウトは10:00。
いくら連日の寝不足で死にかけていようが(実際この日も、山の手の乗るべき向きを間違えるほどに死んでいたのだが)、お構いなし。
仕方ないね、そういう契約だから。
で、前回と同様、早めにチェックインすませて搭乗口前のPCスポットでブログを書く、というつもりだったのだが・・・。


京急に乗り込む直前に連絡が入って、なんと空港まで見送りに来てくださるとのことだった。
勿論ありがたくお見送りしていただくことにして、空港では購入したばかりの『グノーシス 「妬み」の政治学』を読んでいた。
(またマイナーな本を・・・)


生という有限な時間の中で、その貴重な時間を私に会うために裂いてくれるということは、本当に大変なことである。
そういう人がまだいてくださるということが、私が生き続ける理由となり、日々の活動のモチベーションとなるということは、今回の上京でようやく学習した貴重な事柄である。
私は、私を必要としてくれる人のためならば、生きられる。


残念ながらその方とお話しする時間はあまり長くは持てなかったのだが、上京の締めくくりに、私にとって一番大事なことを思い出させてくれた貴重な一時であった。


復路の飛行機では、子連れの帰省客で満員の中、相当騒がしかったにも拘わらず、穏やかな気持ちで無事着陸までの時間を乗り切ることができた。


今回の上京では、これまでの上京とは異なり、目的を1つに絞っていた。
それは、「人と会う」ことである。
だが、その目的を、私は誰にも(それこそ当の本人達にも)言わずに粛々と上京の準備を進めていた。
これには訳がある。


私は、これまでのこちらでの生活に(主に仕事面で)疲れ果てていた。
体の不調もさることながら(病は気から!)、本来の目的を見失い、いったい何のためにこのような苦しい思いをしてむなしくあがき続けているのか、解らなくなっていた。


就職するそれ以前の時点で、私は「人生を降りた」つもりになっていた。
この思いは今でも変わることはない。
私は、私自身の未来に何の希望も見いだしていない。


入った頃は必死だった。
誰よりも能力の面で劣っていることは解っていたから、人の2倍も3倍も努力することを自分に言い聞かせ続けてきた。
研修中は、それでも目の前に課題が用意されていたから、自ら目標を設定する必要もなく、ただがむしゃらにそれに取り組んでいればよかった。
努力の分だけ確実に成果は上がった。


だが、それは実際に求められているもののほんのさわりでしかなかったということを、配属後しばらく経ってから思い知らされるようになる。
「やったことがない」「習っていない」「まだ勉強していない」は実社会では通用しない。
「これから勉強させてください」では間に合わない。
求められた成果を求められた期限内で、提出しなければならない。


1年目はまだ「新人だから」という言い逃れが出来た。
(1年目の後半のブログのテーマは見事に「逃げる」となっている)
だが、2年目も半ばを過ぎた頃から、言い訳が見あたらなくなってきた。
これに残業時間の規制が追い打ちをかけることとなった。
能力の不足分を時間で補うことが出来ない。
そもそもこの発想自体が間違っているのだが、当の本人は必死である。
求められたことに応えられないことはそのまま己の無能さを晒すこととイコールである、そうやって自分を追い詰めていくようになった。
(2年目のブログには諸処に「無能」という言葉が見られる)


それでも、私は、必死に食らいついていた(少なくとも本人はそのつもりだった)。
だが、昨年末の案件対応で早朝出社・長時間残業が長期間続いた後、私は完全に消耗しきってしまった。
体調不良もさることながら、仕事でミスをして自滅することが続き、それは年が明けてからも一向に改善することがなかった。
(年末年始は結局何もできなかった。やけ酒は体を更に痛めつけるだけで何の問題解決にもならなかった)
4月になると、仕事で地を押さえることが出来なくなっていた。
all or nothing
全てが思い通りにならないなら、全部なくなってしまえ。
それは、「反抗的」と捉えられても仕方のない言動だった。
いや、それならばまだ改善の余地はある。
むしろ、「キレて」しまったと思われていたとしたら・・・。
そんな危険な人間を置いておくほど会社という組織は寛容ではない。
どうにか冷静に論理で繕ってはいたが、私はその場で泣きながら暴れかねないほど心穏やかではなかった。
我慢の限界を感じていた。


人間というのは本当に変わった生き物である。
自らを破滅に導く思惟を自ら止める手段を持たない。
「生きる理由」を捨て去った私が、「働き続ける理由」を求めるようになっていた。
最初私は自らの潔癖な性格にそれを求めた。
「義務感」
早々と、私を支えている唯一のモチベーションは「義務感」であると結論を出して、それ以上思考することを自らに禁止した。
しかし、私は、私の観念の暴走を止めることが出来なかった。
問いは更に続く。
その「義務感」はいずこから来るものであるか、と。


これは非常にリスクの高い問いであることは直感的に解っていた。
私にはこの「義務感」の出所を説明することが出来ない。
何故なら、それは何にも依らない、単なる「義務感」に過ぎないからだ。
私は私にとっての快、私にとっての「幸福」が全てを終わらせることであることを知っている。
だが、私はそのような行為に出ていない。
それは何故か。
私がそこに「義務感」を持ち出してその問いをとどめようと試みたのは、その問いに応える「理由」がないということを直感的に悟ったからである。
即ち、この「義務感」とはただの方便に過ぎない。
ここで、以下の事実が、もはや避けることの出来ない確固たるものとして浮かび上がってくることとなる。

私が自ら全てを捨て去ることを選ぶことに対する防壁となるものは何もない

私は、少なくとも(わたし)は、それを恐れていたのである。


もはや私は私の問いから逃れることは出来なくなっていた。
この問いに対する答えを見つけられない限り、私はいつ破滅を選択してもおかしくはない。


東京行きは年末から決めていたことだった。
有給がとれるかどうかなど、考えもしていなかった。
(実際に許可が下りたのは、航空券購入から2週間以上経過した後)
何のためにか、その時は全く考える余裕がなかった。


3月の末に航空券を取得し、そのタイミングで前回上京した方々に一通りその旨連絡した。
いつもの調子であくまで「連絡まで」として。
だが、その時に私は自分が毎回何をしていたのか、気づいてしまった。
いや、気づいていないふりをしていたのだ。
私は、それほどまでに、病んでいた。


結局、私は上京の度に、「自分がまだ必要とされているのか」を確かめていたのだ。
この人はいつもそう。
そんな小賢しい手段を使ってまで自分を肯定したいと思いながら、それを必死になって隠すことしか頭にない。


前回よりも鈍いレスポンスに対して、「今回はゆっくりと休めそうだ」と強がりを言いながら、内心穏やかでなかったのは容易に想像がつくことであろう。
自業自得だ。
そして、結局はそのような我が儘が仇になり、上京の直前までスケジュール調整に追われることになった顛末に関しては、滑稽以外の何ものでもない。
小人とはこのような人間のことを言うのだ。


奇しくもこの世界で私と袖を振り合わせた方々は、そのような私の幼稚な工作など気にもせず、私に会おうと言ってくださった。
彼らは私などよりよほど人間が出来ている。
私はまたも彼らに救われた。


上京して彼らに会い、歓待を受け、居場所を与えられ、発言を求められ、(ややお仕着せがましいことながら)助言をし、(まこと偉そうながら)書籍を贈り、求められた話をした。
私は以前よりも(自分の自信のなさのために)緊張することなくその場にいることが出来、以前よりも背伸びをすることなく自然に彼らに益をなすことができた(と少なくとも本人は思い込んでいる)。
私は、少なくても彼らとまともに会話をかわせるだけの正気を備えており、また少なくても分相応の負担が出来るほどには、仕事をしていたのである(未だに私は自分のことを「給料泥棒」だと信じて疑わないが)。


もし私が彼らにとって害なすものであれば、彼らは私の連絡を丁重に無視しただろう。
もし私が彼らにとってあまりにもつまらない人間であれば、彼らは大いなる情けをもって私に接したことであろう(既に十分情けはかけてもらっているのだが)。
無能な癖に妙な自負心を持っている私のことだから、当然そのような扱いには耐えられず、2度と彼らの前に姿を現すことが出来なくなっていただろう。


そこまで考えて、ようやくこの愚鈍な人間にも自らの支えとなっていたものが何であるか解ったのである。
「彼らに必要とされる人間であり続けること」。
これが、最後の水際で私を支えていた「義務感」の正体だったのである。


私は、もはやこのつまらない自分のためにがんばることは出来ない。
守るべきものも持たず、またこれから先も自分のような自暴自棄な人間がそのようなものを持ってはならないと思っている。
そのような私が生きる理由。
つまらないことかも知れない。
結局は自己満足でしかない。
だが、今の私にはこれしかない。
そして、それだけで十分である。


私は、私を必要としてくれる人のために生きている。
私は、私を必要としてくれる人のためにならがんばれる。
私は、これからも私を必要としてくれる人の期待に応えられるように研鑽を怠らず、精進を続ける。


まこと滑稽な一人相撲ではあるが、己の思い上がりの結果、全てを失いかけていた人間が、誰かのために何かをしたいと思えるようになっただけでも、大変な進歩ではないか。


東京で見つけた、石田衣良の最新作の帯の文字が、今の私の心境を如実に表している(作品そのものの出来はいまいちだが)。

誰かのために働く、それだけで人は生きていける。


石田衣良 『再生』 帯より