汝の名は、ひと。


予報通りの雨、強風の中を自転車で帰ってきた。
雨具を使用する気にもならず、おとなしく打たれるがまま、黙々とペダルを漕いでいた。
が、少しも不快ではなかった。
行きはあんなにも不快だったのに。


シャワーのような雨の中、この違いはなんだろうと考えていた。
雨の降り方だろうか。
確かに、行きの雨はしつこくまとわりついてくるような雨で、雨量に比例してしっかりと濡れてしまうような、やっかいな雨だった。
帰りの雨は、横から吹き付けるような、傘がまったく役に立たないという意味ではよりやっかいな雨だが、雨粒が細かく、また空気も暖かかったため、まるでシャワーを浴びているかのような心地よさがあった。


だが、おそらく違いはそこではない。
後があるかないか、それこそが問題なのだ。


行きはこれから仕事をしなければならないという意識が強かった。
あまりひどく濡れると、乾くまで不快な思いを強いられるだけでなく、体調を崩して仕事に支障がでる。
靴や靴下は濡れて使い物にならないから、予備のものに変えなければならない。
故あって急いでいるのに、雨が邪魔でなかなか先に進まない。
などなど。


要は、後先を考えるから、今、この瞬間が快であるか不快であるかは関係なく、雨そのものを不快と感じてしまっているのである。


だが、帰りはそのような心配はない。
どれだけ濡れても帰ってから風呂に入って暖まれば良い。
週末なので、洗濯物の処理も明日で良い(勿論、乾かすべきものは乾かしておかないとカビにやられて大変なことになるが)。
まあ、帰ってからの手間をこのように考えていたとしたら、あのような快を雨に感じることはなかっただろう。
あのときは、以上のようなことですら考えていなかった。
だから、身体の感じる感覚に身を委ねることが出来た。


思うに、子供の頃は皆、後先など考えずに、身体の感じる快に身を委ねることが出来ていたのではないか。
その時、彼らの頭の中には、「今、このとき」しかなく、だから、大人が忌避するような雨や、果てはどろんこなどというものたちと嬉々として戯れることが出来る。


大人になるとそうはいかない。
先のことを考えると、濡れたり汚れたりということは仕事を増やすだけのやっかいな状態に過ぎない。
また、たとえその瞬間は快だとしても、その後濡れたまま、汚れたままであれば、それは不快となり、さらには体調を崩したり病気になったりしたら、その一瞬の快などと比にならないほどの不快となることは火を見るよりも明らかである。
このような考えに支配されているから、今、このときの快を素直に快と受け止めることが出来ない。


だが、よくよく考えれば、先のことに思いをはせればはせるほど、今、この時の快はそのまま快として受け取ることが出来なくなっていく。
そうして人生は苦だらけになってしまうのである。
その時その時には間違いなく感じていたはずの快が、まったく意味を失っていく。
自らの賢しさにより自らの生を苦に貶めていく愚かさ。
愚かなり、人間。