私を象徴するような出来事と出会った。
出会った、という表現は不適切で、私はそこで消極的にも自ら主体的な選択を行ったわけであるが、とりあえずそれは私にとって、「わたし」を理解する1つの出来事であった。


何のことはない。
バッティングセンターに行って、何もせずに帰ってきた、ただそれだけである。


この日は(もともと土曜日なので運動をする必要があると考えていたということもあり)、お昼からバッティングに出かける予定であった。
「フリーダム」にいらしている方からバドミントンのお誘いがあり(結局それは会場が見つからないとのことで頓挫したが)、出かける際も雲行きが怪しかったので躊躇したが、それでも強い意志をもって家を出た。
バッティングセンターは、自転車で往復小一時間かかる場所にある。
やや場所が離れているのと、最近は土日の予定ががっちり押さえられているのとで、行ったのは本当に久しぶりだった。


この日は風が強く、しかも向かい風だったので、自転車での移動は難儀だった。


何となくそうではないかと予測していたのだが、正月休みの終わりという時期に、手近で設備の整ったアミューズメント施設というと、かなり混雑・・・とても混雑していた。
6つほどしかないバッティングブースは、家族連れで綺麗に占拠されていた。
あらあら。


もともと並ぶのは好きではない。
無為に時間が過ぎることをよしとしないからだ。
また、「並ぶ」というコストに見合うだけのリターンというよりも欲求の強さを持ち合わせていない。


何よりも、あの中に入っていって「並ぶ」という行為は、「私にも順番を譲れ」という意思表示である。
それはエゴイズム同士の衝突であり、一種の「戦い」である。
私は、「戦い」たくない。


「生きる」ということは戦うことである。
「生きて」いる以上、「戦い」から逃れることは出来ない。
(それは何も他の「人間」とだけではなく、自分の体内でも日々ウィルスや細菌と自分の抗体とが戦いを行っている)
延々と道を譲り続けていると、いつまで経っても目的地に到着することは出来ない。
失業者に職を譲れば今度は自分が無職になる。


それでも、私は「戦い」を忌避する。
可能な限り、それが許される限り、私は「戦わ」ない。
私が「戦う」のは次の場合だけである。

  1. 私が「戦わ」ないことで、私が属している集団、或いは私の面識のある人が相当大きな不利益を被る場合
  2. 「戦う」ことが私の義務とされている場合
  3. 私の尊厳が脅かされる場合
  4. 私の生存が脅かされる場合

この順番はそのまま、私が「戦う」かどうかの判断をする際の優先順位となっている。
下位の自分だけが損失を被るという場合には、「戦わ」ないという選択をすることがしばしばある。


私は、理念としてはラディカル・パシフィストである。
従って、本来は、1.2.の場合でも、主義主張を貫くならば戦ってはならない。
だが、何度頭で言って聞かせても、「わたし」が言うことを聞いた試しはない。
それは人間としては正しいのだろうが、ラディカル・パシフィストとしては間違っている。


今回のケースは私で利害が完結している事項であり、尊厳も生存も特に脅かされてはいない。
強いて言えばわざわざ出向いたのに、何もせずに帰ってきたことに対するストレスが私の心身にダメージを与えるかどうかという点で生存に関係するのかも知れないが、その点はよくよく「わたし」に確認をとった上で、「おそらくそのことを大きなストレスとして感じることはないだろう」との回答を得たので、後の憂いもなく、速やかに退出した。
私はこの欲求の減退を人間性の高まり、進歩だと評価する。
(単に生きていることから「逃げて」いるだけではないか、という批判は甘んじて受け入れる。(生物的に)生きることからの「逃避」こそがラディカル・パシフィズムの神髄である)