何だったんだろう。


特別体調が良かったわけではない。
むしろ朝から腸の不具合に苦しんでいた。
(身体、冷やしたようだ)
こういう日は不快感(時にそれは明確な痛みとなる)が1日中続く。
まして、今日は過去のブログを埋めるという非常に不毛な作業をしていて、それがなかなか進まずにいらいらしていた。


音楽が、そこに導いたのかも知れない。
その瞬間の前に、1度軽い躁状態を経験していた。
(最近は宇多田ばかり聞いている。"Letters"がお気に入り)
音楽は、やはり麻薬だ。


それにしても。
観念では「捨てた」とか「どうでもいい」とか「未練などない」などと繰り返し強調しているが、結局はこの身体がそれを拒絶しているから、今、ここに、私はある。
しかし、タナトスの働きか何かは知らないが、時にこの身体も死の衝動に身を委ねたくなるときがあるらしい。
まあ、どちらでもよい。
今死んでしまったとして、書きかけの「物語論」が残るだけなのだが、これは「人が生きる意味は何らかの物語を紡ぐためである」という自分の信念から書いているだけなので、完成しようがしまいがどちらでもよいのだ。
今のこの苦しみ(残念ながら多幸感は一瞬で後は元の苦しみに戻る。今は左脇腹辺りが突っ張るような痛みを訴えている)と、今日感じた解放感のどちらをとるか選べと言われたら、勿論後者だろうが、それは身体の気まぐれで、自分から作り出すことが出来るものではないので、望むだけ無駄である。
死んでしまえば確かにこの「苦しみ」は消滅するのだろうが、その時には一切のものが消滅しているので、「苦しみ」の消滅は既に無意味である。
結局は、終わりを迎えるその時まで、薄く長く伸ばされただけの無意味な生=苦しみが続くのである。
その終わりの時が、今であっても、50年先であっても、特に大きな差はない。