書名:機動戦士ガンダムUC (5) ラプラスの亡霊
著者:福井晴敏


福井晴敏ただのオタク説(ガンダムユニコーンはへぼい2次創作説)は、杞憂だった。
本巻でようやく「このガンダムは何か凄いものを書こうとしている」と感じるようになった。
いや、4巻までが、設定がマニアックすぎるだけでストーリーがぐずぐずだったから(しかも一部設定にはあまりにも納得のいかないひどいものがあったから)、「あ、これは駄目だ」と思っていたのである(ちなみに4巻の感想。私がいかに失望していたかが解るはず)。


本巻では、それまで複数仕掛けられていた福井流の伏線があちらこちらで炸裂する。
ああ、この人物はこのためにここに配置されていたのか、ああ、この人物はこれをなすために生かされていたのか、と感心させられることしきり。
久しぶりに「富野ガンダム」を読んでいるときの、充実感を味わうことが出来た。


やはり、富野の目は確かだった。
彼は、戦争が何であるか、人殺しが何であるか、現実が何であるか、人間関係が何であるか、そして他者が何であるかをよく知っている。
それこそまさに富野が「ガンダム」という勘違いされやすい媒体を使って必死に伝えたかった物語の神髄である。


本巻で強く印象に残る場面は2つある。
1つは地球のマーセナス家で開かれたパーティーにおける、地方有力者婦人たちの、スペースノイドに対するすさまじいまでの偏見と差別意識が発露した場面。
自分たちと同じ人間を平気で「宇宙人」呼ばわりするような、誤解と偏見、差別意識は、そのまま現在の地球上の大半の人々が持っている、誤解・偏見、そして差別意識をよく表している。
「人が解り合うこと」がいかに絶望的な状況の中で行われようとしているかということを改めて感じさせられる場面である。
そして、「異質なもの」たちとの絶えざる戦争を支えているのは、このような人々の他者理解の欠如なのである。


もう1つは、ダグザがバナージとの会話の後で、部下のコンロイと交わした、「現実」についての短いやりとりである。
ここに、「大人になる」という言葉が意味するところの問題が全て含まれていると言っても過言ではないほど、この短い会話には深い意味が込められている。
バナージとダグザ、そのどちらもが正しく、そのどちらもが間違っている。
そして、それは単にフィクションの世界にとどまらず、我々の「現実」の世界における真実でもあるのだ。
自覚と覚悟にその問題の全てが修練されている。
果たして、あなたはどちらの立場をとるだろうか。


これこそまさに、「ガンダム」の真骨頂なのである。
ガンダム」とは最高の思考実験の場である。
理由は2つある。
1つは「戦争」という極限の状態を、それも「核」よりも遙かに壮大な大量殺戮の要素を含んだこれ以上ない極限の状態であるということ。
「救命ボート」倫理といった抽象的で迫力にかける思考実験よりも、遙かに過激で多岐に富んだ状況を備えている。
もう1つは、そのような「戦争」という極限状態でありながら、敵と味方が、(互いに相手を殺す武器を突きつけながら)会話を交わすことが出来るという設定である。
殊、近代戦において、敵・味方が戦闘中に(罵りや叫びといった動物の鳴き声に等しい発声を除いて)話をすることなどできない(話が出来ていたら、もう既に戦争は(少なくともその戦闘事態は)終わっている。そうすると、それはもう極限状態ではない。というよりも、会話が出来ている時点で、既に他者問題の半分は解決している)。
ガンダム」はMSという障壁を隔てることによって、この「会話」を可能にしている。
そしてそのことにより、多くの事象が発生する。


極限状態におかれた者たちがどのようなやりとりをするのか。
何を語らせ、どのような議論に発展させていくのか。
それこそが富野を継ぐ者に課せられた最大の責務である。
福井晴敏は、本巻で見事に「ガンダム」に課せられた使命を証明して見せた。


次の巻、大いに期待できそうだ。