愛すべき娘たち (Jets comics)

愛すべき娘たち (Jets comics)

書名:愛すべき娘たち
著者:よしながふみ


同期の方から貸して頂きました第2弾。
話の展開そのものは面白かった。


まあ、そういう奇跡みたいなものは起こりうるんだろうねぇ。
親子三代の愛憎劇。
嫌いな部分があって、どうしても赦せない部分もあるけれども愛さずにはいられない。
人間の関係としては100%全部肯定、好きなので全部許せる、なんてことはあり得ないわけで、「我慢出来る」レベルであれば十分愛せるし、どうしても無理な場合でも距離をとることで相手との関係を一挙にカタストロフィーにしてしまうことを避けることが出来る。


だから本書で展開されている物語は現実味があって尚かつ人の心の美しい部分がうまく抽出できていると思う。
間に意図不明な物語が挟まれてはいるが、「読める」本である。


ところで。
本書には貸していただいた方の意図が有るようなのでここで一考察。
お題はやさしさの不可能性について。


ある人が「優しい」という時には次の3つの意味が無条件で組み込まれている。

  1. 優しさの対象が限定されている
  2. 自分を犠牲にしている
  3. 本人に自覚がない


1.に関して。
現実世界においては全ての物質は互いに相反する利害を抱えている。
ある人にとって望ましいことが別の人にとって最悪なことだということがありうる。
ある対象を利する行為が別の対象を破滅に追い込むということは日常茶飯事である。
人間にとってよいことが他の生物にとって良いこととは限らない。
AとBという敵対する2人がいて、それぞれが時間或いは空間的に離れた位置にいる場合には両方にとって「優しく」することは可能であるが、この2人が同じ場所に居合わせたときに両方にとって「優しい」とはいかなることであろうか。
その場合、「優しい」人はどうしたらいいか解らず立ち往生することであろう。
ここで否定されるのは「結果」としての「優しさ」である。
更に、「優しさ」から行ったつもりの行為が相手を直接害する或いは相手の気持ちを害するということがある。
この場合、被害を被った方は相手の「優しさ」を認めることは出来ないだろう。
その人が狭量だとは私は考えない(実際に「優しさ」の害を被ってみれば解る)。
ここで否定されるのは「行為」としての「優しさ」である。
こうなると残るのは「気持ち」としての「優しさ」となる。
或いは始めからこちらだけを問題にしているのだと主張する人の方が多いかも知れない(そうだとしてもそれが「行為」となったときに必ずしも相手にとって「優しい」とは受け止められないことを上で述べたつもりである)。
むしろ「立ち往生」してしまうような人のことを「優しい」人と呼ぶことの方が多いだろうから。
しかし、「気持ち」としての「優しさ」は当然のことながら見ることが出来ない。
だから、結局、ある人のある対象に対する「行為」を一側面からだけ切り取ってこれを「優しい」と呼ぶことになるのだが、これは正確さに欠ける表現である。


2.に関して。
通常「優しい」とされる行為は、行為主の方に十分なゆとりや余裕がある場合に行われる場合とそうでない場合とに分けられる。
だが、前者を「優しさ」と呼ぶのには無理がある。
前者はむしろゆとりや余裕と呼ぶべきものである。
従って、実際に「優しい」と評価される行為は後者で、すなわちそこには自己犠牲の要素が含まれている。
「他を抑えて自分を利する」行為ではなく、「自分よりも他を利する」或いは「自分を抑えて他を受け入れる」行為こそが「優しい」行為なのである。
しかし、ここでまた「優しさ」は不可能性に直面する。
例えば、風で倒れた自転車を立て直す行為が「優しい」行為であるとするならば、倒れた自転車を見かける度にそれを直さなければならない。
もし、ある場合には立て直してある場合には立て直さない、或いはある自転車は立て直して他の自転車は立て直さない、ということが起こりうるとすれば、その人の行為は「優しい」と言えるだろうか。
或いは極端な話、たまたま人が見ている時に気まぐれに倒れている自転車を立て直した人がいたとして、その人を「優しい」人だと言うことが出来るだろうか。
このような偏りをなくす為には、その人は世界中の倒れた自転車を立て直して回らなければならないが、そのようなことは勿論不可能である。
このような事実を認識したとき、その人は優しさの「不可能性」に気づき、そこで立ち往生してしまう。
またしても「優しい」人であろうとすることは挫折するのである。
(ちなみにたまたま自転車を立て直した人を指してこれを「優しいところがある」人と呼ぶことは可能である。しかし、その定義ならば世界中の人全てが「優しいところがある」人となり、結果としてそれは「優しい」人などいない(皆が優しいのであれば差異はない)ことと同義である)


3.に関して。
2.を経過した人は実は3.は不可能なのであるが、ひとまずそれは置いておく。
ある人の行為が「優しい」という場合、それが行為主にとって「無自覚」であることが前提とされている。
「誉めてもらおう」「感謝してもらおう」という意図をもって行った行為を「優しい」とは言わない。
「純粋に相手のためを思って」行為すること、あるいは「相手のことを思うときが引けて」行為しないことが求められる。
少なくとも行為に及んだときには自分の行為が「優しさ」に基づくものであると自覚できていないことが条件である。
なぜなら自分の行為が「優しい」と自覚した上でその行為に及ぶのは、偽善であり、自己愛以外のなにものでもないからである。
「優しい」人は無知である必要がある。
少なくとも自分の「優しさ」に無知でなければならない。


話が広がったので整理しておくと、
1.通常「優しい」と呼ばれる行為は対象と視点を固定して一側面から評価したものであり、正確さに欠ける(従って私は1.の条件の有無で、論じる「優しさ」のレベルが異なると考える。ここでは1.の条件を取り払った高次の「優しさ」について論じる。恐らくここで問題になっているのは低次のレベルでの「優しさ」ではないはずだからだ。まあそうすると、そもそもからして「優しさ」は破綻しているという立場になるのであるが)
2.優しさには「自己犠牲」の要素が必要である
3.「優しい」人は己の「優しさ」に無自覚でなければならない
ということを議論の前提とする、ということになる。


さて、これでようやく本書の第3章の主人公の「優しさ」について論じることが出来る。
本書の主人公は「分け隔てなく愛すること」を信条とし、それを貫こうとした結果その不可能性に気づき、現実世界から逃避することを決意する。
これは上記1.で述べた「優しさ」の不可能性に直面した結果主人公がとった行為である。
蓋し「優しさ」の不可能性に直面した者は自分にとって都合の悪い状況に背を向けるか、ある特定の部分だけを見て残りを見ないようにするか、「優しい」人であることを断念するかのいずれかである。
「自分の出来ることに限界があり、自分の行為が相手を害することがあり、自分の行為は時に『偽善』以外のなにものでもないことを知りつつ、それでも出来る限りのことをする」という態度は十分に成立するし、大概の人の立場はこの通りなのであろうが、その場合(以上の理屈で「優しい人」であることを断念していない場合)、実際に発生していることの大半を無意識に見過ごしている。
そのことに関しては特に非難に値しないのだが(自分のことを殊更に「優しい」と主張している場合は別である)、少なくとも私はそのような人の「優しさ」を特別視することはない。


主人公の話に戻る。
主人公はおそらく上記のことに「自覚的」である。
そうでなければ最後に出会った男性と一緒になることを選択していただろう。
しかし、それでは彼女は自分の「優しさ」を貫けないと判断した。
ここが重要な点で、彼女は自分が「優しい」人であり続けるために、そのような選択をしたのである。
ということは勿論、彼女は自分の「優しさ」に自覚的である(すなわち3.に反する)。
自らが「優しい」人であり続けるために一切を拒絶するという行為を果たして「優しい」と呼べるだろうか。
ただの「自己愛」と何が違うのだろうか。
(ここで、「優しい」行為を行う→周囲が感謝する→自分も満足する→ますます「優しい」行為を行うというありふれた良循環を思い描く人もあるだろうが、それは社会的に望ましい行為を奨励するための欺瞞以外のなにものでもない。そのような行動は相手のことよりも自分の「優しさ」を優先し、時に周囲に害悪を振りまくことになり、迷惑であるし、困難な局面に直面すると簡単にその「優しさ」は放棄される点で表層的である。やはり「優しさ」には自己犠牲の要素がどうしても必要であり、上記で述べたようにそれは必ず破綻する)


主人公が本当に「優しい」人ならば、どうして最初にお見合いをした人と「結婚して」あげなかったのだろう。
彼は彼女を必要としていた訳であるし、彼の性格を直してあげること(あるいは彼の憤りのバッファとなってあげること。そうすれば彼ももう少し他人に「優しく」なれるはずだから)は彼にとって良いことであると思うのだが。
それを断ったというのは、やはり彼と一緒になることで自分が「優しい」人であり続けることは困難であると察知したからであり、彼女は自らの「優しさ」に自覚的で自らが「優しい」人であり続けることを優先したと言える。
そのような人を私は「優しい」人と呼ぶことは出来ない。
(本書に対する感想だけならばこの一段落だけで良かったのかもしれない)


絶対的な「優しさ」は(局所・瞬間的以外には)存在し得ず、「優しさ」は相対的なものであるとして、俗に言う「優しい」性格の人がいることは私も認めるが、そのほとんど全てが、上記の基準に照らして特に「優しい」とは言えないものであるから、私はそれらの人を「優しい」人とは呼ばないのである。
自らがその基準に適さないことは言うまでもない(私はどちらかというと「優しさ」の不可能性に気づき、それを「断念した」部類に属すると自分では思っている)。