カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫)

書名:カラマーゾフの兄弟
著者:ドストエフスキー(原卓也:訳)

「東大進入生に薦めたい」、のは上巻だけだろう。
中巻は中だるみだったが、下巻も特筆すべき箇所には巡り会わなかった。
それでもイワンと悪魔との対話の箇所は面白かったので中巻よりはだいぶましであったが。
結局(これは私の趣味の問題なのかも知れないが)イワンが持論を展開していない箇所は退屈以外の何ものでもない。
要は(少なくとも私にとっては)イワンが全てということになる。


物語としては、評しがたい。
何せ、未完の作品なのである(事前の知識がなかったので、下巻を読み終えて初めて「ん?何か変だな。まさかこれ、未完の作では・・・」と思い、解説でようやくそれを知った)。
訳者は小林秀雄を引いて、これは「未完であれ既に完成した作品である」と述べている。
確かに、イワンの問いはそれなりに完結しているのだが(彼は発狂してしまったので仮に著者が以後彼にまともな言葉を語らせないことを意図していたとするならば、確かにこれはここで完結であっても完成度としては問題はない)。
しかし、物語としてはこれでは納得がいかない。
膨大な「設定」を読まされて、「残念ながら著者急逝のため本編はありません」、と言われた気分である。
罪と罰』のようなしっかりとした結末を期待していたため、非常に落胆させられた。


思想的には、私はやはりイワンに近い。
(それにしても悪魔との対話の場面は、以前視た『ルー・サロメ/善悪の彼岸』という映画を彷彿とさせた。ニーチェが悪魔とキリストが踊っている幻覚をみる場面)
イワンほど(つまりドストエフスキーほど)洗練されてはいないが、同じような問題意識を持ち、同じような疑問に捕らわれている。
まあ、西洋人ほど徹底した宗教教育など受けていないから、己の無神論に対する良心の呵責から発狂してしまうようなことにはならないとは思うが。


「私までもが善行に(あるいは愛に)手を染めてしまったら、この世界から全ての差異がなくなってしまう」という悪魔の指摘は正しい。
この世界が悪と苦のない天国のような場所になってしまったら、全ての差異が消滅し、(私の持論によれば)全ての物語が消滅することによって一切が無と帰す。
原理的なキリスト教の終末観は無への回帰を意味していると私は考えるのだが、あの連中は本当にそんなことを望んでいるのだろうか?


中巻のゾシマ長老の話が意外に面白くなかったのでアリョーシャに期待したのだが、まさにこれからというところで本書は終わってしまっている。
長兄のドミートリィにしても、そう。
個人的に気になるリーザなどかなり中途半端な状態で放置されている。
がっかりである。


この長編はドストエフスキー最晩年の思索ノート(未完)として読むのならばよいが、物語を期待して読むことは勧めない。
物語としての完成度は(これよりも短い)『罪と罰』の方が優れている。
少なくとも私はこれが彼の最高傑作とは認めない。


さて、と。
次は『貧しき人々』でも読みますかな(『悪霊』も興味あるな)。