フューチャリスト宣言 (ちくま新書)

フューチャリスト宣言 (ちくま新書)

書名:フューチャリスト宣言
著者:梅田望夫, 茂木健一郎


読了は発売からすぐ、昨年の6月のことであったが、その時にはまともな書評を書いていなかったので、ここにレポート(HPにて公開)の考察部分を丸ごと引用する。
書評というよりは本書をまとめて私が考えたこと、なので本の内容の話はほとんど出てこないのであるが。

考察: 
 有史以来、即ち「書かれた歴史」の始まりから今日まで、権力は常に限られた人々の手の中にあった。それは何も過去の話ではない。強力な中央集権国家の誕生に寄与した官僚は、仕えるべき国王なき今も健在である。代議士とて権力者である。我々の意見を代表しているといってもせいぜいそれは最大公約数でしかない(最大公約数であるということは、極端な話、全員に不満がある状態ということでもある)。軍隊や警察は説明するまでもない。
 権力を持つものが「正しさ」を決める(正確には「正しさ」を決めるのは権威なのであるが、権威は権力のバックアップがあって初めて権威たり得る。権威の支持のない権力は滅びる運命にあるが、権力と全く独立に権威は存在し得ない。両者は持ちつ持たれつの関係にあるといえるが、ここではイメージがしやすいように敢えて「権力」が「正しさ」を決めるとしておく)。
 この点で現代に特徴的なのはマスコミの存在である。彼らは国家権力とは別の独自の「権力」を持つ(国によっては国家権力に完全に牛耳られているマスコミもあるが)。マスコミもまた(それが独立しているなら)独自のやり方で「正しさ」を決める。
 これらの権力はそれが「死の権力」であれ、「生の権力」であれ、とにかく全く一方的に「正しさ」を決め、それを受け入れることを強要する。特にマスコミはそれが「多数」の人が支持する「一般的な」意見であるかのように装って「正しさ」を押しつけてくる、たとえそれが間違いであったとしても反論出来ない以上、あくまでそれはマスコミという権力による「正しさ」の押しつけでしかない。
 Web2.0とは、これまで一方的に定められてきた「正しさ」に対する挑戦である。なんらかの権威を持つ人の見解が「正しい」のではなく、全員でよってたかって議論し、手を加えて出来た結果が「正しい」。これは必ずしも「多数」が絶対的な力を持つことを意味しない。始めた当初は少数でも、多くの賛同者を得ることが出来ればそれが「正しい」ものになる。また、自分がその「正しさ」に納得がいかない場合は直接その旨表明することができる。たとえその行動によって定められた「正しさ」を覆すことが出来なくても、少なくとも独自の「正しさ」を主張することが出来る。つまり、「正しさ」が併存出来るのである。更に、多くの者によって決められた「正しさ」はその時点から全く変わらない(即ちそれが新たな権威となり、他の「正しさ」に対する主張を封鎖する)ということはない。それは常に状況や参加者の気分によって更新され続ける「正しさ」である。これは古い考え方からすればとんでもないことのように見えるかも知れないが、そもそも「正しさ」とは、相対的なものであり、多くの者の幸福に貢献すべきものであり(いくら「正しい」からといって自然環境保護のために人類を抹殺するというのはいかがなものだろうか)、常により「正しい」ものに置き換えられていくことが望ましいものであるから、ネット上で構築される「正しさ」の方が、より「正しさ」の本質に近いと報告者は考える。
 Web2.0が引き起こす奇跡(例えばウィキペディア)は、有史以来初めて、人々が権力の手から「正しさ」の決定権を奪い取ったことを意味しているのではないか。


 本書にはもう1つ重大な発見がある。それは、上記のようなWeb2.0の発想、あるいはそれを支える「ハッカー」達の価値観というものが、人間の生理或いは心理からみてもごく自然であるということである。茂木氏の「Web2.0的発想は脳のメカニズムと酷似している」という内容の発言は、Web2.0が人間のごく自然な欲求に基づいて作られたものであるということを支持しているように思われて心強い。
 20世紀の理想主義とロマンティシズムのほとんど全てを占めていたと言っても過言ではない「共産主義」の実験はなぜ失敗に終わったのだろうか。それが人間の性質に反する、大半の人間に「無理」を強いる思想だったからである。だからこそ、「思想改造」が必要になり、そのために(皮肉にも資本主義社会よりも)強力な権力、即ち国家が必要になった。だが、人は安きに流れる。エントロピーはエネルギーを加えない限り増大し続ける。人に無理を強いるシステムには莫大なエネルギーを必要とするが、いくら資源を投入しても人の本質が変わらない以上、最終的には増大するエントロピーを押しとどめられなくなってそのシステムは崩壊する。「共産主義」は机上でしか成り立たない「空想」でしかなかったのだ。
 しかし、Web2.0は人間の自然の欲求、流れに沿って構築されつつあるシステムである。これから先、旧弊との戦い、特に著作権の考え方との間で激しい戦いが繰り広げられることが予想されるが、その前途は明るいように思う。今は一部の「変わった」者に限られた「特殊な」価値観でしかないが、それが人間の自然に根ざした考え方である以上、これからそのような価値観を持つ人が増えてくることは十分に期待できるからだ(ユーチューブに対する人々の反応は、ナップスターが現れた当時のものとは180度変わっている。勿論、前者が視聴に限られているという点でぎりぎり合法のラインを保っているのに対して、後者が「所有」を可能にするという点で現行法上「違法」の扱いを受けたという違いはあるが、この国の極端に保守的な国民性を差し引いたとしても、やはりこの数年の間に人々の考え方に何らかの変化があったと考えてもいいのではないかと報告者は考える)。


 フューチャリストとは、そのようなWebの可能性に賭け、自らその伝道者として、あるいは推進者として、オプティミスティックに活動し続ける人のことを指す。我々もまた、本書の2人に続いて、Webがもたらす真の可能性に賭けてみようではないか。
 報告者はここに、力及ばずながら、自らもまた2人と同様、フューチャリストであることを宣言するものである。