思えば今は全ての芸術家にとって苦難の時なのかもしれない。
全ての研究者にとっても。
作品の価値が売れるか売れないかという資本の論理だけで評価される。


確かに市場の原理は、あるものの「商品」価値を正しく評価しているのかもしれない。
人類という単位で考えた場合、多くの人に評価されるものほど高い価値を持つという論には筋が通っている。
これに抵抗するためには「歴史」という軸を持ち出すしかないのだが(10年前の流行歌の評価は、現在では全く異なるものとなっている、など)、それも「現在主義」の前には無力だ。


だが、問題は正しい評価ではない。
評価されること、評価されなければならないこと、そのものなのだ。
そもそも芸術家が作品を生み出すのは(あるいは生み出さないのは)、自らの中にある形のない何かを取り出して形にしたい、いや、せざるを得ないからであって、それ以上のなにものでもない。
小説家が書かざるをえないのと同じで芸術家は表現せざるをえないのだ。
それは人が特定の対象を愛さざるをえないのと同じで(私には理解できない感情ではあるが)、近代になって作られた「自我」というまやかしの「自分」の力で押さえ込めるたぐいのものではないのだ。


しかし、資本の論理は、あるものに芸術活動を強要し、あるものには芸術活動を禁じ、当人にとって苦役でしかない生産活動に従事させる。
芸術家に苦役を強いることほど人類に対する冒涜はないのである(だから私は『戦場のピアニスト』という映画を耐え難い苦痛とともに視聴した)。
芸術家は(表現は悪いが)「飼う」ものである。
間違えても芸術家自身に自活させるものではない。


過去においては芸術家にはパトロンがいた。
現在のような富の偏りが比較的緩やかな社会においては、社会がこれを「飼う」必要がある。
芸術家を「飼う」だけの余裕がない人類になんの存在意義があろうか。


だから私は共産主義思想に傾倒したのかもしれない。
私が共産主義思想を理想の社会として思い浮かべるとき、そこで共有されているのは「小麦と鉄」ではなく、アートである。
「各人が能力に応じて働き」で示されている「能力」とは、生産を趣とする、あるいは創作を趣とする、という個人的性向も含めた「能力」なのだ。
芸術家はその趣くままに創作を行う。
理屈家は思うままに理屈をこねる。
文筆家はひたすら読み、そして書く。
ハッカーは世界をよりよき場所にするためにプログラムに専念する。
各人が趣くままに活動し、生産に向くものは生産に、創作に向くものは創作に励む。
私のように理性と感性がそれぞれ中途半端に備わっているものは、生産もし、創作もすればよい。
そして多くを産み出すものがその社会を支える。
それこそ私が共産主義に求めた理想なのかもしれない。


より高い生産を行うために、より多くのものを消費するために、各人がその「能力に応じて」それぞれのやるべき作業を割り当てられる。
そのようなシステムは、姿を変えた「神」に過ぎない。
ニーチェの予言は間違っていた。
「神」はまだ死んではいない。
「神」は今も我々を支配しているのである。


社会という名の「神」に正面から戦いを挑むのは得策ではない。
自らの命という最終「手段」を用いて何かを表現したとしても、結局は「神」の都合のいいようにねじ曲げられるだけだ(死人に口なし)。
ただし、この世界の「神」は全知全能ではない。
うまく立ち回れば「神」を欺き続けながら生きることができる。


だから、私は、書く。