恋と愛の違いについて

長年頭を悩ませていた問題について、突如直観が明晰な答えを示したので以下に記しておく。


恋と愛とは対比すると解りやすい。
ということは、この二つは峻別出来るということである。
そもそも「恋愛」という文化が無かったこの国で、外来の"love"に「恋愛」の字を当ててこれを表したことに問題があるのだ。


この二つは区別することが可能である。
従ってもうこれらの境界に思い煩うことはない。


恋とは渇望であり、欠落である。
愛とは充足であり、充満である。


恋とは求める気持ちであり、愛とは何も求めない気持ちである。


恋は要求であり、愛は自足である。


恋は相手に何かを求めるものであり、愛は相手に何も求めない。


相手に「こうして欲しい」と思う気持ちがあれば、それは恋であり、相手が「どうしてもいい」と思う気持ちが愛である。


恋には与えられる喜びがあるが、愛には与える喜びすら必要ない。


恋は欲情に限りなく近い。
愛に近いものを挙げるとしたら悟りが該当する。


恋はその本質が欠乏であるゆえに苦しい。
愛はその本質が充足であるが故にその人を苦しめることはない。


恋には目的がある。
愛には目的がない。


恋と愛とは同一人物の中に共存しうる。
また、同じ対象に対して恋と愛との両方の感情を抱くこともある。
恋と愛とは相対的なものであるから、愛が7割恋が3割という状態がありうる。
勿論、相対的とはいっても、10割の恋、0割の愛という状態もありうる。


従って、恋愛関係は、双方が恋、片方が恋で片方が愛、双方が愛という3つの異なる状態に分類される。
恋愛関係はこのどの状態でも維持されうるが、後者であるほどその関係が持続する確率が高い。


双方が愛という場合は、関係持続のための条件は存在しない。
特に理由がない限りは関係が持続する。
たとえ、外的要因により関係が途絶えたとしてもお互いが苦しむことはない。


片方が恋で片方が愛という場合は、恋の側が求めているものを愛の側が与えられるか、そして与え続けられるか、が関係持続の分かれ目となる。
愛の側の愛の比率が少ないか、或いは与え続けることに疲れ、「耐え」られなくなった時が関係の終焉である。


双方が恋という場合は、関係が始まった直後に大きな分かれ目が来る。
このパターンは、すぐに破綻する場合が大半であるが、意外に長く続くこともある。
要はお互いが求めるものが上手く噛み合うか、である。
噛み合わなかったらすぐに終わりを迎えるが、利害が一致する限りは続く。
勿論、これが恒常的な関係に止揚されるためには、相手に何かを求める「恋」からあるがまま、そのままを受け入れ与えることに喜びを見いだせる「愛」に変わっていく必要がある。
これはどちらか一方だけでも良いが、それがお互いであるほど、そして愛の割合の方が高ければ高いほど、この関係の持続可能性は上昇する。


愛のない恋はありうる。
恋の要素のない愛もありうる。


恋しく思う気持ちは相手から与えられることがなければ苦しみになる。
愛おしく思う気持ちはそれだけでその人に幸福感をもたらす。


恋することが出来ない人と愛することが出来ない人とは異なる。
恋を求めることと愛を求めることとは異なる。


人々はあまりにも恋を求めすぎているように思う。
ただ与えるだけで、相手の求めに応じるだけで幸せになることは可能である。
幸せになるために、そのように思える相手を探すことも出来る。


ただ相手のことを思うことで幸せな気分に浸ることは可能である。
そのように思えるなら、それだけで自足できるなら、あえてそれ以上を求めて自分も相手も苦しめる必要はない。


恋を知らずとも人は不幸にはならないが、愛することが出来ない人は人として生きることの幸せの大半を失っている。


相手に対する感情が恋か愛かを見極めるためには、しばらく相手から離れてみると良い。
その時感じているのが苦しみならば、それは恋である。
相手のことを思うだけで、相手の幸福を願うだけで満たされた気持ちになれるのならば、それは愛である。
愛はそれだけで成就しているから、その先を必要としない。

↑やたらめったら括弧を使わなければ、ここまで文章はすっきりするのである。
そこの君、君のことだよ。
(うわあ、何こいつ。俺たちのこと抹殺しようとしている。なあ、なんとか言えよ)<誰でも最後には無我の境地を求めるものだ>
(おいおい、そんなこと言っているとほんとに殺されちまうぞ)<釈迦に会えば釈迦を殺せ・・ブツブツ>
(はあ、だめだこりゃ。いよいよ俺もお陀仏か)