12/16である。
感じたことは感じたときに記録しなければならない。
詩など特にそうだ。
まあ、私は売文家ではないので消えていったものに関して特に感慨を持ったりはしない。
消えていったものは消えゆく運命だったのだと理解している。


一人でいるときにその人のことを思い浮かべる。
一月も見かけないと姿を見たいと思う。
わずかなやりとりが心を満たす。


人はこのような状態を恋と呼ぶのかも知れない。
だが私はこのような自分の心の動きを特別なものとして扱うことはない。
このようなことは昔からよくあったことであり、それも特定の誰かということでもなかった。


私の心は最初から死んでいたのではない。
恐らく私は恋をすることが出来たのだろうと思う。
そのような気持ちを突き詰めていけば、あるいは実際に行動に出て確かめていれば、その感情が成長していくこともあったのだろうと思う。


まったく会わなくなって、もう会うこともないだろうという時になって、特定の誰かのことだけが印象に残っていることがある。
恐らく私はその時恋をしていたのだろう。


だがそのような感情を私は尊重しないし、その経験から学ぶことをしない。
手に入れる前から失い、いや、手に入れようとすることすら自らに許すことはしない。


以前は自らを厳しく律するつもりでいた。
感情は殺すことこそが唯一正しい行為であると信じていたときがあった。


それらが何の意味も成さないことを知った今でも、私は自分の心の動きを尊重することはない。
私は既に自分を棄てたのであり、私を待つ運命は破滅であり、それに誰かを巻き込むというようなことは少なくとも正気の私がなせる行為ではない。
だがそのような偽の道徳はとうに捨て去ったはずだ。
それでも私は今でも私のために何かをなすというような行動に出ることはない。


恐らく私の感情は未成熟なのだろう。
人との交わりを回避してきた私の感情は経験によって成熟することを免れているのであろう。
だから私の感情はおとなしく私の理性の命令に従って殺されるがままになっているのだろう。
あるいは未熟であるが故に、私自身の臓腑を傷つけることでその痛みを訴えているのであろう。
しかしそれら全てを私は大事なこととは考えない。
私は成熟を拒否しないが、そのための努力をしようと考えることもない。


求めなければ何も与えられない年齢になって初めて自分が多くを与えられてきたことに気づく。
しかし求めないという姿勢はあまりにも私にとって自然な姿勢となっていたのだろう。
もう与えられたものを拒絶するようなことはしないだろうが、積極的に何かを求めるというようなこともしないのだろう。
そしてそれは年を重ねるごとにますます与えられなくなり、果ては全てを失うことになるのだろう。


私は寂しいのかもしれない。