書名:終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル
著者:宮台真司


はぁ?という感じの本。


予想以上にまともな言論人であったが、そのまともさ故にはぁ?と言わざるをえない内容になっていた。


なんでまたこのタイミングで宮台なんか読み出したかといえば、東京で会った人に、「宮台の言っていたことに似ている」と言われたから。
(まったく、人の影響受けやすいんだから)<いや、どちらかというとこれはアイデンティティの危機なのだと思うぞ。
この人にとって宮台のイメージは、小林よしのりの漫画にかかれているような「変態」社会学者?だから、自分がそれに似ていると言われてショックを受けたんだろ。>
(人の話は聞かないくせに、人から何か言われるとすぐにきにする悪い癖、どうにかならないのかね)


・・・・・・。
一応これは日記です。
公と私がごたまぜになっているのは個性(嫌な言葉!)だと思って見逃してください。


で、宮台。
いやほんと、宮台って「ブルセラ社会学者」のイメージしかないのよ。
そのくせその主張を読んだことは一度もないという。


少なくとも何か面白いことは言っているんだろうな、と期待したのだが、なんのことはない。
「革命」も「科学の進歩」も「ハルマゲドン」も「地上の楽園」もやって来ないから、つまらなくて不条理なこの日常に適応して生きていけ、とただそれだけ。
ニヒリズムといえなくもないが、「権力への意志」が欠けているので「ニヒリズム」ですらない。
強いて言えばペシミズムで、この場合考えられるのは、主張者が極端な強者(経済的にも精神的にも)の場合で自己を肯定している(宗教などに逃げる「弱者」を許さない)場合か、主張者は実はマッチョイスト(流されず、他人に依存せず、常にマッチョでいなければならないと思っている(特に身体的に)弱い人のことを私が勝手に名付けた)で、弱い自分の状態に不安があるので、常に声を大にして弱者の「弱さ」を攻撃し続けなければ安心できないという場合のいずれかである。


小林よしのりは後者で、宮台は、本書一冊の感じでは実は前者ではないか、という気がした(一般のイメージ?では逆(小林よしのりという強者に宮台が徹底的にいじめられている)のように見える辺りが面白いと思う)。
なんというか、弱者への思いやりが感じられないのである。
宗教に頼らざるをえなかった弱者を揶揄してその心を踏みにじっているのだが、そこに必死さ(そうしなければ自分をそのような危険から遠ざけることは出来ない)は微塵も感じられず、むしろ「社会に適応している人間」の余裕が見られるのである。
私はこのような「鈍感な強者」には純粋に怒りを感じる。


ブルセラ」少女たちが、究極のリアリストで、現在で言うところの「勝ち組」だという主張は解る。
だが、「他人を殺さない範囲で自分のフィールドを拡大させつつしたたかに生きる」ことが出来るのは、ごく一部の「強者」だけである。
そもそも「現実をあるがままに肯定」できるものは、ニーチェの言う「超人」であり、この言葉のニュアンスが示している通り、並大抵の能力でなしうることではないのだ(当のニーチェは発狂した)。
結果、悩まない、苦しまない、「強い者」だけが生きていくマテリアルワールドの中で、弱者はますます「生きづらさ」を強めていくのだが、この人の本にはその対処法がなんら示されていない。


だからといって、マテリアルワールドを突き詰めていって、次々と「幻想」を破壊し、果てに「自然に帰れ」と言い出すのかと思うとそこのところは歯切れが悪い。
少なくとも最低限の道徳は守ってね、という勝者の自己保身が垣間見えて気持ち悪いのだ。
いいではないか、サリンを撒いたって。
その代わりこっちもありとあらゆる手段(弾圧や取り締まり、締め出し、差別)を用いてこれを阻止あるいは排除するけどね。
ニヒリストならこのぐらい言ってしかるべきである(別に本人はニヒリストだとは一言も言っていない。ただのリアリストなのかもしれない。ただ、ニヒルな発言でかっこつけているような箇所があるからかみついてみただけ)。


で、なんだっけ。
私が似ていると言われたのは「教育」に関する意見だったのだが、この人の教育論ってどんなんだろ(何のために本を読んだのだ?)。
なんとな〜く想像できて、しかもなんとな〜く似ている感じがするのが嫌だ
近親憎悪ってやつ?