痛みの源は第一に時間であり、第二に他者である。
時間を感じなければ変化を感じない。
痛いという感覚は痛くないという状態からの差によってしか感じえず、それは痛くなかった「過去」の記憶と痛くなくなる「未来」への予感なしには成立しない。


痛みは他者の認知があって初めて痛みとなる。
他者が存在しなければ「痛み」は自分の状態そのものであって、ただそうあるがままでしかなく、それに名などつけることはできない(まあ、他者の存在なしにはそもそも「痛み」を感じる主体である自我そのものが存在しないのであるが)。


私の痛みも一人では意味をなさないものである。
だから、一人でいるときには生じない。
時折、一人でいることを忘れた身体が無意味な痛みを発動することはあるが・・・。


痛みを癒すことができるのは愛だけである。
これは仏陀が説いたことに反するようにみえるかもしれないが、そうではない。
確かに、執着こそが苦しみの原因であることは間違いないのだが、執着を生み出すのは愛欲であって愛ではない。
では愛とは何かといえば、まさに無我の状態のことを愛というのである。
それは言葉の定義を変えただけの詭弁ではないかという指摘は、一切の形而上学を言葉遊びであると言っているに等しい(いや、確かに言葉遊びなのだが、その中に重要な「気づき」があることを忘れてはならない)。
愛とは意識的な何か、意図的な何かが働かないことであり、自他の境界が消滅してしまうことである。
外界からの入力に対して、一切の意図を交えずに、あるがままそのままそれを受け入れること、それが愛である。
従って真の愛からは執着も妬みもまたそれに由来する苦しみも生じない。
それだけではなく、その無我性により、痛みすら消滅する。


私は愛について語っているのであって愛することについて語っているわけではない。


シッダールタ (新潮文庫)

シッダールタ (新潮文庫)

久しぶりによい小説を読んだ。
さすがは古典、さすがはヘルマン・ヘッセである。
しかしこの人が20年以上もインド仏教を研究していたことは知らなかった。
なるほど、『車輪の下』に満ちていた厭世観はそういうことだったのか。


シッダールタとあるから、仏陀の生涯について書かれた本であると勘違いしていたが、そうではなく、むしろ主人公は仏陀と会ってそれを「本物」であると認めつつ、仏陀の門下に入ることを拒絶し、友をすててなんと愛欲の生活に身を投ずるのである。
この展開は意想外で、かつ喜ばしいものであった。
私が知りたいと思った思想の遍歴がまさにそこに現れることになったからである。


この小説は「色即是空」そのものを語っている。
言葉によって悟りは語り得ないこと、従って悟りを開いた覚者に付いて学び、その声を聞き、著書を読んだところで自らが悟ることは出来ないこと、避けるべき世俗の欲はしかしその中にどっぷりつかり、それに吐き気を感じるまでは本当にそれを棄て去ることはできないこと(ただしどっぷりつかったまま出てこれなくなる可能性もあり、それはそれでよいのである)、自我は滅っそうとすればするほどますます強靱になっていくこと、救いの道、悟り、すなわち自我の消滅は全ての者に対する愛によってしか成し遂げられないこと、など生きる上で必要な知恵は全て本書に含まれている。


この書を読んで私の大乗仏教に対する考え方が180度変わった。
以前私は大乗仏教の大衆宗教的側面しか見ておらず、同じく大衆宗教としてのキリスト教と同様の軽蔑をもってこれを評価していた。
特に他力本願を標榜する浄土教の類が嫌悪の対象であった(この点は今も変わらないかもしれない)。
だが、(これは私の考え方が変わったのかも知れないが)自我から逃れようとして苦行を自らに強いる上座部仏教の嘘くささを感じ取るにつれ、世界に対して自らを開くことによって自我を消滅させようとすること、あるいは衆の中にあり、欲望の渦のまっただ中にあって尚かつ自らを静かに保っている状態のことを「悟り」というのだと考えるようになって、私の思想は知らぬ間に実は大乗仏教の思想の方に向いてきていたのだと思われる。
本書の語る思想によって、自分の考えていたことが、上座部よりもむしろ大乗に近いことを確認し、そのことにより大乗仏教に対する見方を改めることになったわけである。


もう一つ、本書を読んで私の印象が変わった点がある。
それは西欧人の東洋理解、特にその思想面におけるそれは、私が考えていたよりもずっと進んでいたということである。
西欧人の東洋理解といえば、エキゾチシズムかオリエンタリズムの域を出ないものであろうと諦めていたのであるが、本書の著者ヘッセのように、自ら考え、実践した結果として、東洋思想をその字面だけではなく本質に至るまで理解し、自らのものとし、そしてこのように語ることが出来る者がいたのだということを知り、感銘を受けた(全く知らなかったというわけではなく、西欧人に深く根付いたキリスト教的価値観をまざまざと見せつけられていくうちにどこかで「やはりこの辺りに限界があるのか」と諦めていた部分があったのだと思う)。


下手な宗教に手を出すよりは、本書のような長い苦悩の末に生み出された良書を読む方がよっぽど人生にとってよいと思うのは私だけではないだろう。


上下、と読んだが、評価はまだ保留とするしかない。
何よりも物語がまだ動き出し始めたばかりだからである。


しかし、このシリーズには期待できそうだ。
さすが福井晴敏である。
何がすばらしいかと言えば戦場の描写である。
この生々しさ、泥臭さそしてそこから発生する心理の描写は体験した者ですら書けないのではないか、と思われるほど優れた筆致である。
ガンダム」がただの電気紙芝居の中のロボットプロレスに終わらないようにするために、それは必要な力である。


それにしてもこれ、売れたらアニメ化してやろうという思惑が見え見えである。
なにせキャラクターデザインが安彦でメカデザインがカトキハジメと来ている。
いきなりアニメ化して外れると大損だから小説で様子でも見ているのだろうか?
売り出したときに「福井晴敏」の名だと引きつけるものがあると期待してのこのビッグネームの起用だろうか。
つまらないことを考えさせられるこの商業主義、唾棄すべきものである。
が、私は物語さえ面白ければ外見に拘わらずこれを摂取することにしている。


月曜日は加湿器を買いに帰った。
即断即決・・・そして即金、ではなく支払いは来月に延ばしてもらうことにした(ツケではないよ。時代が違う)。
必要だと解っていることを思い悩むほど人生は長くない。
(それにしても値段不相応な加湿器を買わされたものだ)


火曜日は走った。
この日は特に午後からいわゆるliquid stateであり、おそらく前回よりも早い段階でgive upしてしまうだろうと思っていたら、意外なことに目標の距離を完走してしまった。
つまり体調的にはそんなに悪い状態ではなかったということだ。
自分の身体に対する不信感は募る。


以上記録のため記す。


ちなみにHPをリニューアルしたので、思想めいたことは徐々にそちらに書くようにしようと思う。
A Haunt Of Intelligence
かなりの程度こちら(ブログ)と重複するだろうが。