2/14である。
今日が何の日だったか、忘れた。
どうでもいいや。


またしても教室に生徒を放置して、今度は銀座にお出かけ。
・・・・・・。
だから、授業じゃないってば。
きちんと帰ってから解答・解説したから。


夜の銀座は綺麗だった。

<なんか、今日は普通の日記だな。>
(まあまあ。ここから面白くなるんだって。)


目的は、引っ越しや退会の挨拶用の粗品の購入。<"の"が多い。3点減点>

↑某沖縄土産品店が本日の目的地
まあ、せっかくだから、地元品でお別れの挨拶を、と。
しかし、目立たないなぁ。
もう少し派手に自己主張してもいいと思うのだが。
2階から上はどうみても普通のビルだぜ。


商品の選択、購入には特に問題もなく、購入(一部発送)後、塾に舞い戻り、世界史の解説。
帰宅。


最近復活した黒い小箱と戯れてまた寝不足の日々を過ごす。<なんだ、面白くないじゃないか。>
(おかしいなあ。面白い話のネタがあったはずなんだけど・・・。
忘れちまった。)

憲法九条を世界遺産に (集英社新書)

憲法九条を世界遺産に (集英社新書)

薦めていただいた本なので、少しばかり感想と愚考を。

太田はやはり賢いと思った。
彼の賢さは、知識などではなく、その感性にある。
特に桜に関する考察、「桜は死の花ではないか」というくだりは、さすがだと思った。
日本人の桜に寄せる思いと、独特な死生観。
「かつて日本人が表現していた死の表現」→桜 という感性は秀逸である。


これに比して中沢は冴えなかった。
ここで彼に期待されるのは、進歩的知識人(左翼)として、対談のレベルを向上させることである。
しかし、彼の展開する論は、対談のレベルを低いものにとどめていると言わざるをえなかった。
特に彼が述べた、「個人のレベルでの問題と、国家のレベルでの問題を混同するのは間違っている」という理屈は、正しそうに見えて実はナンセンスである。
その理由は二つある。
一つは、国家の法としての憲法に対する認識である。
憲法は「市民」が国家を縛る法律(の大原則)であるから、「市民」の総意が反映される。
もし仮に「市民」の意志が「戦争はしないが自分と自分の大切な人の身は自分で守る」ということであれば、憲法にそれを明記すればよい。
憲法をどのように制定するか」、と「制定された憲法に基づいて行動すべきか否か」、は別次元の問題である。
中沢はこれを混同している。
もう一つは、現実に対する認識である。
中沢は、国家が軍隊を持たず、憲法で「戦争をしない」と規定していても、「個人」レベルでは自衛のために暴力を使用してもいい、という論を展開している。
これはすなわち、ミサイルや原爆、銃に対して素手で立ち向かえと言っているに等しい(それとも個人が銃やミサイルや原爆を持てばいいとでも言うのだろうか)。
個人で防衛出来ないから国家と軍隊があるのであって、国家や軍隊を否定しつつ自衛が可能であるという論は(少なくとも具体的な「防衛法」を示さない限り)ナンセンスである。


そして、肝心の憲法論議であるが、やはり、今ひとつの感が拭えなかった。
結局、左翼思想家の嘘くささは、「死の覚悟」のなさと「義務は忌避するが権利は要求する」という甘えに現れる。
二人の対談も、「死の覚悟」という地点にまでいたるのだが、結局その先に行くことが出来ていない。
また、「義務は忌避するが権利は要求する」という甘えということに関しては、そもそも論を展開していない。
その結果、この対談は甘い左翼の議論の水準にとどまってしまっており(まあ、この対談の趣旨がそもそもそのような「ちょっと突っ込んだお気楽トーク」程度にしよう、ということだったのなら敢えて目くじらをたてることもないのだが)、この議論が闘いうるのはあくまで「ウヨク」とだけ、ということになってしまっている。
この責任は全て中沢の方にある。
太田は素人である。
太田の感覚は一般「市民」の感覚であり、むしろその中でも秀逸で優れた方であると言える。
対して中沢は、現代思想の専門家である。
しかし、彼は論をより高い水準へ導くという努力を怠っている。
彼は構造主義の問い「そもそも何故、一人も戦争を望んでいるものはいないのに、戦争が起こるのか」についてすら答えていない。
その結果、せっかくの「憲法9条世界遺産に」という発想は、中身の薄い、単なる思いつきで終わってしまっている。


ここで公平さを期すため、対案として、私の「ラディカル・パシフィズム」論(抄案)を述べておく。

ラディカルパシフィズムとは、徹底した平和主義のことを指す。


そこにおいては、改憲武装論者の以下の問い

  1. 自国が攻撃の意志がなくても他国から攻撃されたらどうするのか
  2. 自分が死んだらどうするのか
  3. 自分の大切な人が死ぬあるいはひどい目にあったらどうするのか
  4. 義務と権利は表裏一体であるという原則をどうするのか(国家に守ってもらいながら国家を非難するという"甘え"は認められない)

に対して、次のように答える

  1. 他国の攻撃に対しては、非暴力・不服従を貫く
  2. 自分の死は覚悟する
  3. 自分の大切な人の死、暴行や掠奪も覚悟する
  4. 国家による戦争と軍隊を否定する変わりに、国家からの保護も求めない


そして、具体的には、
他国からの攻撃・侵略があった場合、相手国並びに国際社会に対して非難を行う。
個人レベルでは非暴力・不服従という対応をとる。
どの規模の犠牲も厭わない。
仮に全滅(国単位で)することがあったら、「人類の未来もないもの」とみなし、あきらめる。


勿論、この論は「安全保障」論としては失格である。
なぜなら「安全保障」とは国民の生命・財産を保障することだからである。
しかし、ラディカルなパシフィズムという基準を置くことで、現在の「左翼」の言説が如何に「甘い」ものであるかが明らかになると思われる。


以上


伊藤真の刑法入門 講義再現版

伊藤真の刑法入門 講義再現版

この時期になって、法学にも手を出し始めた。
刑法(総論)は面白い。
特に結果無価値論。
・・・・・・。
ヲイ
情報の勉強はどうするの?